ガンダムシリーズを論文にしたきっかけ
自分は、ある程度走りながら、ものごとを整えていくような動きをすることが多い。ツブヤ大学もノリで始まった。まえとあとは自分の反骨心みたいなものから始まった。自分がなかばネタにしている2007年に『物語・社会構造から読み解くガンダムの象徴性』というタイトルで、「ガンダムシリーズ」で修士論文を書いた事実も、少しノリに近いものがあった。ただ最終的に出来上がった論文は当初思い描いていたようなものでは実はなかった。
学生のころ就職活動にあっけなく惨敗した自分は大学院へ進学した。ガンダムシリーズをテーマにしたのは当時「機動戦士ガンダムSEED」が放送していたこともあった。自分は歴史が得意だったこともあり、ある種戦争とガンダムを結びつけることを考えたり、進学することにしった「スモール・ネットワーク理論」にも興味をもった。「スモール・ネットワーク理論」については、その後自分の人生を変える契機になったSNSとして深く関わりを持つことになったけれど、学生のころの自分はそんなことを知るよしもなかった。
正直、途中で挫折しかけた修士論文執筆
テーマ素材としての「ガンダムシリーズ」は決まったものの、コアになるプランなどは実は大学院の2年目、通称M2のころになっても固まっていなかった。夏休みあたりまでほとんど論文も進んでいなかった。就活をしていたことも影響はしていたけど、まだ1万字も書けていなかったんじゃなかろうか。というぐらいには追い詰められていたと思う。
だから何でガンダムをテーマに選んだのだろうか? と僕自身は僕自身を呪うことはしばしば心境として持っていた。もっと別のテーマにしていれば、こんなに苦しい想いをすることはなかったのではないか。と思うこともしばしばだった。
出来上がった論文の構成は、前半が物語論で後半がマーチャンダイジング論で成り立っている。大学生のときに師事していたのはマンガ研究の竹内オサム先生(同志社)で、大学院時代に師事したのは広告論やブランド論に詳しい青木貞茂先生(現在は法政大学の教授)だった。だから物語論やブランド論を織り交ぜたような形でガンダムシリーズを論考することになったのだった。
突破口は物語構造マップだった
よくネタとしてもガンダムで論文を書きました。というのだけれど、大半のひとはガンダムシリーズのなかのどこかの作品の論評だろうと思う。でも「機動戦士ガンダム」から自分が学生当時にやっていた「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」までのことを一気にまとめた論文を書いた。現在公開がはじまった「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」については映像化されていなかったこともあり、自分の論文には対象作品としては入れ込まなかった。
何が大変だったのか。物語論パートの骨子にあたる「物語構造マップ」が全然書けなかったことだった。逆を言うと「物語構造マップ」を書けたとき、一気に目の前の靄が晴れていった。一瞬で晴れ間が見えた感覚だった。ただし、それはもう夏休みが終わったあとのことだったので、そこから数ヶ月間で論文を仕上げなければならなかった。
最終的に論文は13万字を越えた。規定が6万字以上ぐらいだったから2倍ぐらいの文字量になる。勉強熱心ねと思われるかもしれないが、事情は違った。内容が終わらなかった。なんせ「ガンダムシリーズ」である。まったく文字数のことは考えず、最終的な結果論として13万字を越えていた。あんなにめざましテレビのオープニングが早いと思った日はなかったと思うぐらい論文提出の締切の日まで書いていた。前日から締切日まで完全に徹夜をして論文を仕上げた。後にも先にもあれだけ追い込まれた日はなかったようにも思う。文字通り必死の思いの結果、「ガンダムシリーズ」を研究した修士論文は完成した。
そのあとにも中身とは別にいろいろと語れることはあるのだけれど、ここでは割愛しておく。
拡大と再生産で構成した修士論文
「物語・社会構造から読み解くガンダムの象徴性」という修士論文は、終始「拡大と再生産」という文言を使って「ガンダムシリーズ」を読み解いている。そして論文を書いて以降も新作のガンダムシリーズが作られ、「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」のような映像化されていなかった作品も最新の技術を使って表現されるようになった。そしてガンダムは誕生から40年が経過している。
ほぼ自分の歳と同じぐらいの年月を歩んでいるガンダムが今もなお深化しているのは、修士論文で活用した「拡大と再生産」に尽きると思う。常にガンダムシリーズは拡大し、アップデートされる技術を活用して過去のものがまた再生産されていく。
このようなスタンスは自分が好きな歴史にも通じるところがある。歴史も常に拡大していて、過去の歴史が新たな発見で塗り替わっていく。そういった流れが実は僕自身が潜在的に好きなことだったのかもしれない。
ガンダムシリーズで論文を書いたあとで変わったことは、まずまったくガンダムを観たことがなかった教授のひとりがガンダムを見たことは個人的に大きな出来事だった。論文の口頭試問があんなに和やかに経過するなんて思いもしなかった。そういう意味ではちょっとしたインパクトを大学にも残せたことは大きかった。
そしてさらに言うとガンダムが好きだったからガンダムシリーズを論文で書こうと思ったわけではない。ということも実は重要なことで、もし大好きなものをテーマに選んでいたら、論文の客観性はなかったかな。というところでも自分にとっては大きな経験だった。
そしてこれは後々気づくことではあるが、あのときにガンダムを十分過ぎるほど摂取したことは、のちの自分の考えかたには大きな影響を与えたんだろうと感じた。
何が正義か考えるよりも、フラットな感覚を持つ重要さ
よく言われるガンダムは大人が見るべきだ論で、自分が言えることがあるとすれば、ガンダムは勧善懲悪ではないところが非常に大事なポイントだ。と言うことに尽きると思う。自分たちの正義がどれだけ脆いものなのか、そして自分たちの正しさは必ずしも相手側の正しさではないということを端的に表現してくれているのがガンダムから一番いろんな人が摂取してもらいたいポイントだと思う。ガンダムシリーズを論文で書いたあとに、より濃く気づいたポイントが、勧善懲悪というロジックの脆さだった。
「正しい」とは何か、本当に自分が正しいのか、そもそも正しいなんてこと自体が幻なんじゃないのか。もちろんどうしても相容れないことは誰しもが持っているけれど、そういう考えもあるよね、と気付けることもまた大事だという点で、考え方を柔軟にするワクチンとして「ガンダムシリーズ」は摂取してもらいたい。たぶん自分が正しいみたいなことよりも大事なことがあって、どんな本質を持っていられるかなのかなって。何が正しい正しくないって基準より大事な基準を持つことがこれからはより大切になってくるんじゃないかと。
今日何でこれを書いたかと言えば、実はまえとあとの根底にもこの考え方のようなものがあるからに他ならないと思うから。「まえとあと」は正しいとか正しくないよりも大事な価値観探しをするためのメディアなのかもしれない。と思ったのはこの1年間いろんな人に取材したこと、そして最近の取材のなかでそう思うことが多くなってきたから。別に意図していないにも関わらず、そっちの方向へ向かっていく感覚みたいな、あれって何なんだろうか、と思う。
そして何よりも最近つくづく感じることは、本当にまだまだ知らないことが多い。こんな情報過多な時代で、毎日これでもかと情報の波を浴びせられているにも関わらず、拘らず何も知らん感覚に襲われる。本当に「えっそんなことあんの?」みたいなことをこの歳にもなって思い知らされることが多い。そんなことが何気ないSNSの投稿のなかにも多く潜んでいる。いや別に潜んでいるわけではなく、しっかりと発信はされているんだが、ニュースサイトじゃないところで、本当に気づきをもらうことも多い。別に識者じゃない市井の人たちから学ぶことが、というかそっちから学ぶことが多い気がする。うっかり気づく。いいのか悪いのかは別にして。
知らないことを知る意味
だからガンダムシリーズで論文を書いたまえとあとで変わったことは、知らないことを知る意味を知るみたいなところかも。めっちゃガンダムを見ていなかった男が突然修士論文を書くと決めてガンダムを見て悪戦苦闘した結果、ちゃんと論文も出来、それなりに評価していただき、無事に大学院を修了し、残ったものは今のフラットな感覚と、何に対しても好奇心を持ち、決めたことはしっかり実行していくことかもしれない。
だから、そういう意味では論文を書くことと、このメディアを運営することは似ていないようで似ている。それはもちろん両方とも自分が書いたり運営していることはそうなんだけど、別に答えを探しているわけではないし、文章を書いている中で掴んでいくみたいなもので、つまり書いていかないと掴めない。
だから最初から答えを決めないことも大事で、それはずっとそうかも知れない。これかな?はあるけど、”絶対こうだ”を置かないと決めていて、それはもしかしたら大学時代の卒論だったり修論で気づいたことかもしれない。書きながら浮かんできたことを示すこと。イタコ感。自分の本質的なところは学生のころからは変わっていないような気がする。ただ学生のころスタンスが変わったのは、一回就活で失敗したからだと思う。何となく陰口を言われたこともある。あのときはすっごく「答え」を探していた気がする。
大学院に進むにあたって、そして二度目の就活のとき、ちょっと考え方を変えたことで、今につながるものが出来た。そしてある種の苦行に近い修論執筆を通じて、今につながる価値観の土台は出来上がっていた。そしてさらにさまざまな経験でそれが補強された。SNSの登場で加速度的に何かが変わり、似た価値観の人たちと出会うことが増えた。学生のころに言われた陰口のようなものは、今までの社会人生活でその全てを成し遂げることができた。そういう意味では少なからず反骨心もあって、それが「まえとあと」にもつながっている。
ガンダムシリーズで論文を書かなければ、まえとあとがなかった可能性もある。今回当時のことを少し思い出しながら改めて書いてそう感じた。
Text:Daisaku Mochizuki