自分のキャパシティ以上のことに反発したかったあの頃
もうSNSをはじめて13年以上になるんじゃないでしょうか。
過去のSNSの投稿のなかでも、20代から30代前半に投稿しているものは、正直あんまり見たくないんですよね。全体的に憤っていることが多かった。がここでは一番当てはまる。そもそも社会に出るまで見る世界が今の何十倍も狭かったせいもあるんですけど、自分の尺度外の理不尽がたっくさん降り注いでいたころなんですよね。
ある種フロンガスで穴が空いたオゾンホールから有害な紫外線が降り注ぐみたいな感じで、こんな理不尽には声を上げないといけないみたいなことがあったんだと思います。でも正直そんなことを言っても何も変わるわけはないんですよね。だって理不尽の供給先が変わらないんだから、変わるはずがない。
恥ずかしいからといって、特に過去の投稿を消していこうなんてことも思いません。そんな時代を振り返る意味ではあっていいものだからです。もちろんブーメランとして返ってくることもあるのかもしれない。でもそれはそれなんですよね。
たぶん理不尽に憤っていたころは、「正しい」「間違い」だと単純な二元論で考えることが多かった。今はここから脱却したことが大きいと思う。Aさんにとって正しいことが必ずしもBさんにとって正しいかどうかわからないのと同様にCさんが間違いだと声高に叫んでいることもDさんは間違いだと思っていないかもしれない。その集合体で世間や世論は形作られている。◯か✗かで判断するのは本当に楽なんですよね。でも実際はそうじゃないことが多い。
はたして自分の見ている世界は完全な世界なのか?
だからと言って強引に◯✗論に持っていくのも違うわけで。でもみんな結局は自分の信じたいものを信じたいんですよね。で、それを盲信し過ぎることも危険なんですよね。だから自分の尺度を持っておくべきなんですけど、それが「正しい」「間違い」の二元論だとあかんかなって思うんです。
「正しい」「間違い」はそのひとがある事象に抱く主観であって、そのある事実に対して想うことは人の数だけ実は千差万別ある。どこから見るかの側面で見え方が変わる。でもそれが人間っぽさであってコンピューターでもAIでもないところなんだと感じます。だから自分から見える見え方を押し付けるのは良くないんだろうな、と30代後半になって気づくみたいな。ちょっと哀しい自分もいたりはします。
だって、そもそもみんな同じ彩りの世界を見ているのかどうかさえ、誰も証明出来ないわけじゃないですか。それぐらい不安定なところには確かに絶対にこうだ!なんてものは存在しないことに気付かされます。
さいわい自分のいま置かれている環境は、いろんな人たちにアクセスできる状況にいて、さまざまな意見をSNSなどを通じて知ることができ、また自分で発信したり取材出来たりするので、それは大きなアドバンテージだと思う。もちろん近視眼的なアプローチに陥ることはままある。でも社会に出るまでは自分の周囲とちょっとそれ以上なことしか分からなかった男が、これだけ拡がりを持つことが出来たことは、よりいろんな価値観を得るきっかけになった。
ベクトルの異なる魔法使いが魔法を唱えて体力を削り合う世界
まえとあとは、批判のデフレ・スパイラルにはしたくないんですよね。まえとあとが出来たきっかけはアクシデントみたいなもんですが、せっかく一気に立ち上げたのに、わーわーと批判しても意味がない。ある種過去の自分とこれからの自分の「前」と「後」でもあると思ったんです。
何かを取り上げて批判することは容易いことなんですけど、そこから前向きなものへ転換することって、ほぼないじゃないですか。それも自分がこんなことしていてはダメだと感じた要因でもあるんですが。最初の話につながりますけど、相手が正しいと思ってやっていることに対して批判をするのって、ただカロリーを消費するだけで意味を成さないんですよね。無駄な労力というか。もちろんカロリー消費して痩せる効果があれば、批判ダイエットを推奨しますけど、そうではない。ただ疲れるだけだし、モヤモヤがいっそう増幅されるだけ。だったら前向きなことへもっと頭を使ったほうがいいんじゃないか、とも考えるようになった。
だからベクトルが違うもの同士をぶつけるだけだと、力がぶつかるだけで何も前進しないままなんですよね。ゲームなんかで言えば、ただ魔法をぶつけあってお互いにHPを減らすだけみたいな。いまのSNSはそんな魔法使いばかりいるような気がする。
そこに共感が集まると、人間なんで似たような投稿をしたくなる、そうするとまた同じように共感が集まるかもしれない。でもそれはいわゆるエコーチェンバーでしかない。だから魔法使いたちは異なるベクトルから来た魔法使いに向けて、いつまでもメテオを唱えているのかもしれない。
僕はメテオは唱えたくない。ケアルとかがいい。ケアルラやケアルガは唱えられないけど、ケアルぐらいはまえとあとで唱えられるんじゃないか、と思う。まえとあとで出したいのは、きれいな文章や作り込まれた文章ではない(もちろん最低限なものは必要だとは思っています)。たとえばライブ会場で浴びた音楽を文字で再現して提示するようなものが出せないかと考えている。
ままの熱量を伝えるためには
まえとあとでは、その場で感じた熱量をどこまでそのまま出せるのかが重要だと捉えている。いや、それは動画でええやん、って話もあると思います。でも文字だから出来る役割もあると考えていて、その場で自分が感じたことが、そのままどうやったら伝えられることが出来るのか、については常に試行錯誤。
たとえば音声を最後に付けている意図は、単純にこのインタビューの被写体になる人物がどんな雰囲気なのか、を端的に分かってもらうための手段として付けている。この記事の主人公の雰囲気が分かれば、そこは途端に立体的になるんじゃないか、そんな想いを持って、音声はつけている。
いかに体感したものを、そのまま伝えることが出来るか、どれだけ平面的なものを三次元的に伝えることが出来るか、については「まえとあと」の永遠のテーマであり、ずっと「前」と「後」が存在していると思う。
もちろん目指している目標は高いし遠いと思うけど、目指さないといけないと思っていて、それが出来たと思えるタイミングってそうそうに来ないと思う。もしそう思える瞬間が来たら、そこで終わるのかどうかは分からない。
たとえばある人には、「インタビューを隣で聴いている感じがする」と言ってもらえた。僕にとってはすごい褒め言葉で、文字が踊っているとも言ってくれた人がいて、そう感じてもらえているものができてるんだとしたら、自分がやりたい方向性には漠然と向かっているんだろうって羅針盤になる。
しっかり構築された文章は、世の中にありふれているなかで、しかも敢えて個人でメディアをやるって、どう考えても暴挙ななかで、自分が出来ることは、いまやっているような方向性だと、今は信じている。
それが誰かに元に届いて、ちょっとケアルぐらいの回復量があって、明日からまたちょっと頑張るかって活力の足しになれば、このメディアをやっている存在意義なのかもしれない。
こうやってコラムを書くときはネタ切れなわけではまったくなくて、いろいろ作業や段取りが追いついていないときに書いていることが多いんですけど、いま制作中の記事や、まだまだ取材したい人は山のようにいて、こんな組み合わせを試したいなと思っているものも本人には伝えていないけど、山のような組み合わせがある。
この組み合わせだったり、企画だったりが山のようにあるのが、これまでの自分の財産であり、これからの強みであり、またメディアをやっているひとつの意味である。地味な史上初をどれぐらい個人で作り出せるか。それを記事の形で届ける意味でもあるはず。
ひそかに見ていると友人たちに言ってもらえることが多いんだけど、堂々といいメディアだと見てもらえるようなメディアに育てていききたい。
Text:Daisaku Mochizuki