一九九九年七の月、彼は電車に乗ってやって来た。優先座席に座って。
一日目
私は一駅向こうの駅前の銀行で窓口の受付業務をしている。
ごくごく平凡な私の一日は、朝はいつも誰かに計られているみたいなラッシュアワーから始まる。
でも、私はそんなラッシュアワーが、意外と好きだったりする。
一人が並ぶと、磁石に吸い寄せられるように、みんなドンドンとくっついていく。私はそんな朝の光景が好きなのだ。そんな私も、もちろん吸い寄せられる。あの長細い鉄の箱の中に。
その箱の中で、一駅分だけ揉みくちゃにされると、私は開放感のままに階段を駆け降りる。だけど改札を通り過ぎてしまうと、誰も同意してくれないだろう好きな一瞬はセピアがかり色褪せて、モノトーンな日常がそこで手ぐすねひいてずっとこちらを見て待ち構えている。
たぶん、その日もそんな何の色も付いていないような日常になるはずだったのだ。
*
午前九時。
まだがらんとした銀行のなか。私の職場は相変わらず殺風景だ。みんなせわしなく開店準備に追われるなか、私は定位置の窓口席に着席する。1日で一番余計なことを考えるとしたら、いまこの時間だ。
私の眼前は、何気ない日常の幕開けを知らせるように、シャッターが無表情な音を立てながら上っていく。
私はいつも、何かの彫像のように無表情な顔で、ただそれが上がっていくのを眺めている。
いらっしゃいませと自動ドアが開き、待ってましたと言わんばかりの表情で表で列をなしていたお客様が入ってくる。
能勢さんの「いらっしゃいませ」も聞こえてくる。
最初に入ってくるのは決まって鈴木さんだ。
鈴木のおじいさんは毎日のようにやってくる。せっせとコミカルに杖をついて歩く姿が、愛らしくてカワイイ。と個人的には思っている。
そして決まって鈴木さんは、私の窓口にやってくるのだ。
「やぁ、また来たよ」
鈴木さんはいつもの決め笑顔で私に語りかけてくる。
「いつもご利用ありがとうございます」
私も負けじと営業スマイルをフルスロットルにする。
たいてい私の勤めている銀行の朝は、のんびりとした朝であることが多い。だから、毎日鈴木さんと世間話ばかり。あまり理由にはなっていないけど。
「もう七月だよ。ホント最近の暑さは早くにやってくるから、いつから夏だか分からないよ。それに悲しいことしか思い出さんし」
少し俯いた鈴木さんの額から流れる汗がぽたぽたと落ちる。
「わしとしたことが、前向きにいかんとな。そうじゃ、奈美ちゃん、あれは信じとるか? ほら、何だったけかな。ん~、ノセタラダマスの大予言てやつ?」
私は思わず噴出して笑ってしまう。ハッとして鈴木さんのほうを見たら、見た感じは怒ってはいなかったけど、目がとっても血走っている感じだった。
「すみません、鈴木さん。それを言うなら、ノストラダムスの大予言ですよ」
「どこか、違とったかなぁ」
鈴木さんは首を傾げていて、本人はノストラダムスと言っているらしかった。でも、口から出てきたのはノセタラダマスだったわけで。そんなことホントは、まぁどうでもいいことなんだけど。鈴木さんの話には合わしているだけでいいんだし。
「きっと、隕石だな」と鈴木さんは言った。
「隕石ですか?」と私は聞き返す。
「ほら、恐竜も隕石が降ってきて絶滅したって言うじゃないか。だから、きっと隕石なんじゃよ。わしゃぁ、もう長生きしたから良いんだけどな。婆さんも死んでしもうたし。まだまだこれからの奈美ちゃんには悪いけど」
「もぅ、そんなこと言わないで下さいよ。でも、安心して良いですよ。隕石なんて降ってきませんから」
私は笑顔で鈴木さんの言葉をはね返す。下手に鈴木さんの話に乗ってしまうと業務に支障が出てしまう……。
「隕石が地球に降ってくる確率なんて、宝くじで一等当てる確率より、うんと低いんですから。ノストラダムスの大予言信じるくらいなら、宝くじで一等が当たるんだって信じているほうが、よっぽど素敵なことです」
さり気なく宝くじの購入を勧めるのも忘れてはいけない。
鈴木さんは、窓口越しにマジマジと私を見ている。
「宝くじなんて、わしゃぁ当たったためしがない。競馬の方がよっぽど儲かるぞ」
チッチッチと私は指を動かして、
「鈴木さん、分かってないですねぇ。そうそう簡単に宝くじ当たっちゃって楽しいですか? 当たらないから、いつか当たるかもしれないってワクワクするんじゃないですかぁ。贔屓のチームがなかなか勝てないみたいなスリルを味わうのが、宝くじの醍醐味ってやつなんです。宝くじってのはね、儲かることよりもロマンみたいなものを追いかけるようなもんなんですよ」
最後はばっちり、どこかのファーストフードの店員のスマイル0円に負けないとびっきりの営業スマイルを、鈴木さんにキメる。
大抵のお客様は、私の営業スマイルで確実に堕ちる。それが、私がずっと入社以来、受付窓口の第一線で頑張ってこれた理由なんだけど、どういうわけか鈴木さんにだけは、まだ私の必殺営業スマイルの効果が発揮されずじまいのままだった。
「それに、わしはお金は持ってるからな」
鈴木さんは、私に向かってウインクなんてしてくる。正直、じいさんのウインクには目を背けたくなる。確実に背けてしまっている。私の心よ、何処へ。
「やっぱり、ロマンを分かってませんねぇ」
吐き気を堪えて、無理やりそんなことを言ってみる。
そんな他愛のない? 雑談をしているうちに、隣も、隣の隣の窓口にもお客様がいて、何人かが順番待ちのカードを引き始めている。
私は申し訳なさそうな顔で、鈴木さんを見る。
これはいつものことだから、申し訳なさそうな顔をするだけで鈴木さんは察してくれる。パブロフの犬の条件反射みたいに。
「ほな、また明日来るわ」
そう言って鈴木さんは、せっせとコミカルに杖をついて銀行を出て行く。鈴木さんはいったい何しにここに来たんだろう、とつくづく思う。この世の中には何にも買うものがないのに店長に会いに来るスーパーがあるらしい。でもここはお金を動かしてくれる人が来ないと意味がないのだ。あと私に気があるとかだけはヤメて欲しいと、もうすぐ七夕だし短冊にでも書いておかないと。
ほとんどいつも鈴木さんはこんな調子なのだけれど、うちの行員は誰も注意しようとしない。完全な黙認行為。
その唯一の理由というのは、鈴木さんがこの銀行の大口預金者であるからに他ならないわけだけど。
結局やっぱり世の中金なのかと、銀行員の私が思うのもどうかと思うけど。ただもう少しお金を動かしてほしいと願う。
「続いてのお客様、どうぞ」
前からお客様が、自分の存在を大げさにアピールするように、ヒールの音を立てながら、私の窓口のほうへ近づいてくる。
「いらっしゃいませ」
高級ブランドらしいカバンを、見せ付けるように窓口の上に置くお客様。
待たされていたお客様は、少し不快な表情をされていたけれど、申し訳ないという顔を私が見せると、すぐにそれもリセットされた。
私の目の前に立っているお客様は、顔は同姓から見ても端正に見えるのだけれど、いかにも金持ちでございます、とでも言いたげなゴージャスな服装で、胸元にサングラスなんか挟んでいる。顔の良さを服のセンスでチャラにしてしまっているようなお姉さんだ。それと、よっぽど大事なのか、真っ黒なネコを抱きかかえている。抱きかかえられているネコは、さっきからずーっと不機嫌なままだ。どうやら私のキラースマイルの効用はヒト限定みたいだ。
いま目の前にいるお客様が、ある意味、今日始めてのお客様。
だから、とどのつまり私の実質の勤務開始は、十時前からみたいなものだ。十時まではほとんどの場合、鈴木さんのお守りを私は仰せつかっているのだ。
入り口のほうから、小気味良く聞こえてくる能勢さんの「いらっしゃいませ」が、心地よく銀行内に響いてくる。
*
ちょうど十時を過ぎた頃、能勢さんの「いらっしゃいませ」の語尾が上ずった。
能勢さんの仕事は、私がこの銀行に勤めるずっと前から、銀行に入ってくるお客さまに最初の挨拶をすることだ。しかも、いつもその調子はどんなときも変わらず、職場では神の声だと恐れられている。その能勢さんの声が上ずったのだ。みんなその声に振り返る。何だかその場の空気までが、能勢さんのほうを振り向いている気がした。
一方、能勢さんのゴッドボイスの調子を乱したその得体の知れないものは、確実に向かってきているらしい。何やらかっ歩しているような足音が耳には入ってくる。
次の瞬間、それはATMコーナーから聞こえた。
キャーという大きな悲鳴が、突風に吹かれたような速さで、私のところまで聞こえてくる。
ここからじゃ、その得体の知れないものが何なのか確かめる術がない。私は受付窓口担当だから、無闇に立ち歩くことは出来ないし、何せ今は目の前にお客様がいるのだから、なおさら無理な話だ。
「早くしていただけないかしら」
取りあえず、前のお客様の用件を終わらせることにだけ、今は集中しないといけない。相変わらず、抱きかかえられているネコは、不機嫌そうに欠伸をしている。
「ありがとうございました」
目の前のゴージャスお姉さん、略してゴージャスにお客様控えをトレーに入れて渡す。もちろん笑顔は忘れずに。
お姉さんはありがとうも言わずに控えをトレーから取ると、ネコを撫でながら出口のほうへ向かおうとしている。
ただ、出口のほうへ向かうのは、何だか危険な気がするのは、私だけなんだろうか?
「アンコちゃん帰りますよぉ」
抱きかかえられているネコの名前はアンコっていうのか。
もしかしたら、ずっと不機嫌なのは名前が原因しているのかも。見た目が真っ黒だからって、アンコはないだろうに。
それとも、確実に近づいている不穏な空気を感じているからなのか。
どうやらたぶん、アンコちゃんは後者であったらしい。
出口に向かおうとしていたゴージャスは、さっきから足が止まったままで動こうとしない。
私の座っている位置にわざとかぶさるように、ゴージャスがいるもんだから、良く分からないのだけれど、みんなの視線がゴージャスの目の前の一点に集中しているかと認識した瞬間、アンコちゃんが鳴いた。いや、ネコなのに吠えた。
アンコちゃんがいきなり吠えたのにびっくりしたのか、ゴージャスがまたこっちに振り返った。だからといって、また「いらっしゃいませ」なんて冗談を言えるような雰囲気でもない。一方、アンコちゃんの体の毛は、スゴいくらいに逆立っている。
何だかすごく緊迫した空気なのに、私が今ひとつピンと来ていないのは、いつもと全く違う空気がこの場所を包んでいるからだろう。ふつう、逆だろ! と突っ込まれるかもしれないけど、私の場合はその限りではないのだ。いわゆる対象外。今、課長に「吉月、お茶」と言われても、サクッと出せてしまう自信がある。そのくらい。
でも、そのときは確実にやって来る。
何を思ったのか、よろけながらゴージャスが突然しゃがみ込んだ。ゴージャスが後ろをチラッと見てからすぐだった。
何かが飛んでくると、思わず身構えたけど、何も飛んでこず。かといって飛んできても、窓口のついたてにぶつかるから私には当たらないわけで。変わりにとんでもないものが、私の目に飛び込んできた。
え、何、あれ? 何回も瞬きをする私。目を擦っても変わらないし、頬をつねっても、痛みがある。どうやら、これは現実らしい。
能勢さんのゴッドボイスが上ずるのも、ATMコーナーからの悲鳴も、ゴージャスの愛猫アンコちゃんの毛が逆立つ理由も分かった。分かりすぎるくらい分かった。
目の前に冗談が立っている。
そうとしか考えられない。
くまのプーさんが座っている帽子を被り、サングラスをかけ、不精ひげを生やした少しでっかい男が、ちょうど私が座っている位置の前方にいる。しかも男の髪の毛は、歴史の教科書でよく見かけたクルクルの金髪カール頭。「十八世紀から来ました」とでも言い出しかねない。そんな雰囲気さえある。さらには服装が着物だったりする。
普通の凡人でもぶった切りたくなるくらいのファッションセンスの欠片もない男が、目の前に立って笑っている。
周りは引いている。
アンコちゃんは怯えている。
私は驚いている。
強引にスポットライトを浴びている目の前の男は、開口一番、片手を軽く挙げて、誰あろう私に向かって、「おっす」と言った。
その瞬間、何か熱い大きなカタマリが私にぶつかった。
「え?」
不覚にも思わず大きな声が出て、慌てて口をふさぐ。
その場にいる全員の目が、私に向いているらしい。
こんな奴、私の知り合いなんかじゃないですよ! と叫んでいるのは、私の心の中でのことで。
その場の視線に縛られた私は、首が前にしか向いてくれない。私の首の首振り機能はロックされてしまっている。
遅れて思考が巡ってきた。
何で、何で私?
そうだ、きっとこれは冗談だ。目の前に立っているのは冗談なんだし。落ち着け、落ち着けと私は自分に言い聞かせる。
男はこっちに近づいてくる。歩くたびにカランコロンと音がする。
えっ、下駄?
さっきまでのんびりと構えていたはずの私は、いつの間にか、みんなと同じ緊迫した空間に引きづり込まれている。しかも行きずりの主役らしい。
男は一直線に私の窓口に向かってくる。ついたてがあるのに、私は思わずのけ反ってしまう。
どんな訳の分からないお客様でも、私のスマイルを見せれば大抵堕ちる。そうだ、それしかない。だから今目の前にいる訳の分からない男に、私は笑顔で立ち向かう。営業スマイル全開!
目の前にいる男が、私に向かって何かを言ってしまう前に、私はギリギリの平静を装って先手を打つ。
「まず、番号札を引いてお待ちください」
私は順番待ちの紙が出る機械を指し示す。男もそっちの方向を見る。先手必勝なったのか?
一方のゴージャスは、まだすぐ傍でしゃがみこんだままのようだ。天災が通り過ぎるのをじっと待っている心境に違いない。いや、この場合は人災か。
アンコちゃんは小さな反抗心で、小さく男に吠えているようだ。この場合はやっぱり鳴いている、かも。
「そのスマイル、作りもんだろ?」
男の大きい声が銀行中に響く。
私の勇気を込めた発言は、完全に無視されてしまった、らしい。
私の思考は、完全に停止した。ピーン。
私の頭の中は、真っ白とも、真っ暗とも取れない状態に陥ってしまっている。
どう考えても追い詰められている私。救いを求める視線を、隣の窓口の関口さんに送る。チラッと私を見る関口さん。
やった。何とかなる。そんな期待が私の心をくすぐる。だけだった。
「次のお客様どうぞ」
関口さんの無表情な声が、静まり返っている銀行内に響く。それが合図だったかのように、止まっていた銀行内の空気が動き始める。
え? 関口さん……何それ?
私の周りだけを取り残して、周りはいつもの銀行内に戻っていこうとしている。
ちょっと、私を置いていかないでよ。何でさっさと日常に戻ろうとしているの? ねぇ、誰か救いの手を差し伸べてよ。この男は何なのよ。銀行ぐるみのドッキリ? 何のために?
「いきなり何をおっしゃられるのですか? 私はカードを取ってくださいと申し上げましたのですが」
同僚の突然の仕打ちに困惑をし、混乱している私は、下を向いたまま思わず早口で、機関銃でもぶっ放しているかのような勢いで話す。
言ってからしまったと思ったけれど、口から出てしまった言葉は、消しゴムで消すことなんかできないから。
恐る恐る顔を上げてみると、男は紙を持っていて、それをひらひらさせていた。
「コレノコトデスカ?」
私のことをおちょくっているつもりなのか、男はなぜかカタコトで話しかけてくる。
男が持っているそれは、確かに私の銀行の順番待ちを示している紙で、男が持っているそれには333と番号が記してあった。
「スミス」
男はそう言った。
「スリーガミッツデ、スミスデス」
また、男の話し方は、カタコトだった。
「ココガ、スミス」
依然、私の頭の思考回転は恐ろしいくらい遅かった。
ココガスミス? Here is Smith.
だけど、ここはスミスなんかじゃないし、まして、私がスミスなわけがない。私は生粋のJapaneseだし。
突然言われたスミスの意味について、頭の回転を無理やりフル回転にしようとしていると、男はずっと何かを指し示していることに気づいた。言われるがままにイスから立って、男の指の先を見る。私の視線は、窓口のついたてにぶつかった。
そこで、私の頭の中がチーンと鳴った。受付番号の数字が出ているはずのところを見てみる。私の窓口の受付番号が、333だったのだ。
ちゃんとしているなら早く言えよ。でも、おかしい。私が操作しない限り、その番号が333とはならないはずだし。
この状況が理解できないのと、私の窓口の受付番号が333だったことが、私の笑いのつぼに勝手にフィットしてしまったらしく、突っ立ったまま不覚にも笑い声を上げてしまう。
「それがホンモノです」
男は私に向かってそう言った。言ったかと思うと、回れ右をして、私に背を向ける。
えっ? それだけ? 何これ。やっぱりこれは銀行のドッキリ企画か何かだろうか。
「ずっと前から、それ、気になってたんですよ」
男は背を向けたままそんなことを言うと、下駄を鳴らして銀行を出て行ってしまった。
連れ、帰っちゃったわよって視線が、周囲からチラチラと私に突き刺さる。
私、あんなのに会ったのは、初めてなんですけど。ずっと前なんてないんですけど……。
能勢さんのいつにも増して丁重な「ありがとうございました」が入り口のほうから聞こえてくる。
何だか、妙に力が入りすぎてしまっていたようで、脱力したら、後ろにふんぞり返ってしまいそうになって、慌てる私。
そうだ、横の窓口をわざとムスッとした表情で眺めると、関口さんが小さくゴメンと私のほうに手を合わせていた。
上手く話に落ちがついたと思いきや、そんなことは全くなかった。
「さっきの笑顔、嘘だったの!」
下のほうから声がすると思ったら、私の前にゴージャスの顔が姿を現した。
男が去って行ったのをいいことに、ゴージャスにはすっかり傲慢さが戻っている。
しかも、ゴージャスは完全にバトルモードの顔つきである。
取りあえず私は、ゴージャスに対して、防御を選択する。
何がゴージャスの腹の虫に触ったのか、とにかく私に攻撃をしたいようだ。
「謝りなさいよ」
単刀直入にゴージャスは言った。
「何に対してですか?」
すっかり嵐が去って、本調子が戻りつつあった私は、努めて冷静に答える。
「笑顔が嘘だったってことよ。機嫌良くして損したじゃない。それに、あんな変なのがやってくるし」
「お客様、申し訳ありませんが、私がいつ、笑顔が作り物だと言いましたか?」
私なりに惚れ惚れしちゃいそうな冷静なひんやりと冷たい声を出す。
「さっきよ、さっき」
目の前でイライラし始めるゴージャス。これは、よくありがちなパターンだ。ゴージャスは、さっき現れた男から受けた恐怖を解消したいだけなのだ。私に八つ当たりするのが最適だと考えたのだろう。それは飛んだトバッチリである。私だって誰かに当たりたい気持ちでいっぱいなのだ。だけど業務中だし、そんなことは出来ない。
さっきは防御を選択したけど、今度はこっちも攻撃を仕掛けても罰は当たらないはずだ。攻撃してきたのはゴージャスのほうなんだから、正当防衛も成立するし。ただし、遠まわしな攻撃になるのは否めないけど。曲がりなりにもゴージャスはお客様ですから。
私は攻撃を選択した。
「お客様、嘘を言われても困ります。確かにさっきの男の方は、私に対して、そのスマイル、作りもんだろ? とは言われましたが、それに対して、私が嘘です、と言った事実はありません」
空気に境界線を引くように、キッパリと私は言い切る。空気に大きく句点を打ち付ける。
ゴージャスに抱きかかえられたままのアンコちゃんは、男が去っていったにも関わらず、依然として不機嫌な顔のままでいる。
もしかすると私の知らないだけで、アンコちゃんは〝不機嫌な顔をしたネコ〟という種類なのかも知れない。
いま、飼い主もアンコちゃんと同じ顔をして、私の目の前に立っている。やっぱり、似るんだ。
余裕まで出てきた私とは対照的に、目の前のゴージャスは、私が全然動じていないのが想定外だったのか、口がギュ―っと閉ざされたままでいる。
ここで何か言えば、あっけなく終わりそうだったから、私は勝ちに行く。
「御用がお済みのようでしたら、待っておられるお客様もおられますので、よろしいでしょうか?」
わざと語尾を持ち上げてみる。
それを聞いたゴージャスの口元が、ピクピクと痙攣したのが分かった。それでも何も言えないらしい。言えない悔しさが、ゴージャスの顔中にみるみる充満しているのが見て取れた。
「もう、いいわよ。次来たときは、ただじゃ済みませんからね。アンコちゃん行きましょ!」
話しかけられたアンコちゃんは全く反応してなかったけど、ゴージャスはくるっと私に背を向けると、来たときよりもヒールの音を大きく響かせて出口に向かっていく。
そんなに存在を主張しなくても、と私はつくづく思う。と、目の前にボンッと置かれたままの高級ブランドのカバン。ゴージャスは、よっぽど気が立っているのか置き忘れていることに気づいていないらしい。
「お客様、すみません」
ゴージャスは振り返らない。どんどん出口に向かっていっている。こうなったら、
「黒い猫を抱いていらっしゃる、華美な服装のお客様、カバンを受付にお忘れになっていますが」
やっと、ゴージャスは立ち止まる。
そこからゴージャスは、私に背を向けたままの状態で、こっちまでやってきた。つまりはバックしてくる感じ。
私の目の前まで来て片手でバックを勢いよく掴むと、顔だけ私のほうを振り向いて、
「みんながジロジロ見てきて恥ずかしいから、あんな言い方することないじゃない!」
それだけ言うと、私がひとこと言う前に、また必要以上にヒールを鳴らして猛スピードで去っていった。
ちなみに私は、「そりゃ、バックする状態で受付まで来たら、誰だってあんたのこと見るでしょうに」と、言ってやりたかったのだった。
そうこうしていると、お昼を取る時間になって、一人でお弁当を広げていたら、飛んでくるように関口さんが私のところに歩いてやって来た。
「奈美さん、一緒にお昼食べてもいいですか?」
取りあえず、関口さんを無視して私は卵焼きから食べ始める。
「ねぇ、奈美さんやっぱりまだ怒ってますか? さっきはホントごめんですって。仕方なかったんですよぉ。次は何とかしますんで、任せといて下さいよ」
次って? 正直あんなのが毎日来られるのはたまったもんじゃない。でも、このままずっと一方的に言い訳されるのもたまったもんじゃない。
「分かった! 分かった。お昼休みもあんまないんだし、関口さんも早く食べなよ」
「はい、ありがとうございます。やっぱり、奈美さんって心が広いですよねぇ」
人懐っこい笑みを浮かべて、関口さんもサンドウィッチを頬張る。
私は心が広いんじゃなくて、単純に面倒くさいだけなんだけど、そんなことはわざわざ関口さんにお知らせする必要もないから、このまま一緒にお弁当を食べ続ける。
「それにしても、さっきの服のセンス悪い人、感じ悪かったですよねぇ」
「どっちのこと言ってるの?」
鳥の唐揚げを食べる手を止めて私は聞く。
「あっ、そっか。そうですよね、ネコ抱いてた女の人ですよ、奈美さんが呼んだら、バックしてきた人」
「あぁ、ゴージャスのことね」
「ゴージャス?」
「うん。見た目が派手だったでしょ、だからゴージャス」
「そっか。でも、あの人胸が大きくて羨ましかったな。奈美さんもそう思わなかったですかぁ?」
そ、そこなの。キミの注目するところは。もっと根本的なところを気づこうよね。
「私、それどころじゃなかったから、ゴージャスの胸なんか見てる暇なかったわ。そろそろ、私のお昼休み終わっちゃうから、先食べちゃうね」
「あっ、すみません。私いっつもこんな調子なもんだから」
下をペロッと出してはにかむ関口さん。それって、男性受けはいいかもしれないけど、女性にはたくさんの敵作っちゃうよ、と心の中でだけ呟いておく。癖になってしまったものは、とんでもないアクシデントが起きない限り直らないものだと思う。もしかしたら関口さんはそれでも直らないかも知れないけど。
ちなみに関口さんは今年入社したばかりだったりする。顔がきれいに出来ているもんだから、受付窓口の真ん中は彼女のポジションになっている。年下なんだけど、どうも性格が合わないから、少し壁を作るうえで彼女のことは関口さんと呼んでいる。向こうは私のことを名前で呼んでくるけど、そんなことはあまり気にしない。私が気にするのは、もっと根本的なことだけだ。
お昼が終わってからの業務は、いつも通りだったと思う。実際のところは、午前中の出来事の衝撃が強すぎてあんまり憶えていない。仕事が終わった瞬間、さっき宇宙から帰ってきましたと言わんばかりに、肩に重力をずっしり感じてしまった。明日はよい一日になるのだろうか。
取りあえず、今日思ったことは、毎日は平凡であったほうが実は幸せなんだ。きっと。いや、絶対そうだ。
平凡な毎日が不幸せ? それは嘘だ。
一日目、おわり
執筆:望月大作