一九九九年七の月(2)

吉月奈美
銀行員
その他
脇役たち

1999年7月。ノストラダムスの大予言の話題が席巻した当時、あの街には恐怖の大王が来ていたのかもしれない。

Profile

吉月奈美
主人公。しがない一般行員
その他
その他、大勢

前回の話

二日目

先に結論を言ってしまうと、男はまた現れた。

やっぱり鈴木さんが帰ったくらいの、ちょうど十時ごろに現れた。男の見た目はさほど昨日と変わっていない。着物の色が少し渋くなったかな、そのくらいの差しかない。

二日目ともあって、昨日ほどの動揺は誰にも見られない。能勢さんも流石に二日続けて声が上ずる、なんてことはなかった。何でもそうだけど、プロとは同じ失敗は二回もしないもんなんだと思う。

また現れた男は、その場にいる他のお客様同様に、順番待ちのカードを素直に引くと、待合のイスに普通に座っている。

昨日に比べると穏やかだったけど、やっぱりその風貌はお客様の注目を集めるのは否めない。男の後ろに座っている男と女が、しきりにコソコソ話しているのが見える。男のほうはもちろん無関心みたいで、週刊誌を真剣な目つきで読んでいる。

「すみません、よろしいですか?」

そうだ、私は接客中だった。

「は、はい。すみません」

私は慌ててトレーに入った伝票を取る。

隣を見ると、今日は任せてと言わんばかりの笑顔で、関口さんが私のほうへ目配せをしてくる。

「すみません、お待たせいたしました。こちらが控えになりますので」

お客様は控えを受け取ると、何も言わずに帰っていく。

私は受付番号のボタンを押し、お決まりの言葉を言う。

「次、お待ちの三十七番の番号札をお持ちのお客様どうぞ」

誰も動く気配がない。

「三十七番の番号札をお持ちの方おられませんか?」

週刊誌を読んでいた男の手が止まり、持っている番号札を確かめると、立ち上がって私のいる窓口のほうへ近づいてくる。また、私か……。

「どのようなご用件でしょうか?」 

「預金口座を作りたいんだよね」

あんまり関わりたくないから、私はさっと預金口座を作るための紙を男に手渡す。

「こちらのほうに必要事項を記入していただけますか? 出来上がりましたら、またこちらまで持ってきてください」

男は黙って受け取った紙を持って、ボールペンが置いてある台のほうへ向かう。

今日はうって変わって、やけに素直だと感心してしまう。もしかしたら、いいや、思いかけた言葉を仕舞い込む。すぐに感化されやすいから、私はいっつも失敗するのだと言い聞かせる。

隣を見ると、関口さんがこっちを見ていた。

書き終えたらしい男が、またこっちに戻ってくる。

男は預金口座を作るための必要事項を記入した紙を、窓口の私に手渡す。

私は、渡されたそれをすぐにチェックし始めるんだけど、すぐに、目がある一点にクギ付けになってしまう。

それは預金者の氏名欄。

預金を作る氏名欄に書いてある名前は、姓がアンゴルモアで名前が大王だった。

いくら今年がノストラダムスの大予言の年だからって、こんな悪戯はないだろう。目の前にいる男は、毎日毎日こんなことをしに現れるんだろうか。

「すみません」

節目がちに、私は男のほうを見る。

「何でしょうか?」

 男は真っ直ぐ私を見てくる。

「また、嫌がらせをしに来られたのですか?」

「そんなわけないだろ。単純に口座を作りに来ただけだよ」

「じゃあ、この名前の欄は何ですか?」

私は姓名の欄を男に指し示しながら言う。

「何もおかしくないじゃない」

おかしくないわけないじゃない。おかし過ぎるじゃないの。

「ご冗談おっしゃられないで下さいよ。いくら今年が一九九九年だからって、こういうことを銀行でされても困るんですけど」

「いやいや、これ本名なんだけど。と言うか、俺がそれなんだよね」

思わず私は後ろにずっこけそうになる。いやはや、目の前にいる男はサングラスを掛けたまま、何ていうことを平然と言うんだろう。昨日は冗談が立っているだけだと思ったけど、口からも冗談が飛び出すんだから、まったく。幸い周りのお客様には聞こえてないみたいだったから良かったけど。

「あとですね、ちゃんと身分を証明するものが必要になりますから、免許証か何か、身分を証明するものは持っていらっしゃいますか?」

男はポケットの中をゴソゴソすると、取り出したそれを窓口の前に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

私はそれをまじまじとまた見つめてしまう。男が出したのは免許証だった。しかもしかも、ちゃんと姓と名がアンゴルモア大王になっているんだから。

そんな馬鹿な、と思わず叫んでしまいそうになる。ありえない。公安はこの免許証をどうやって通したんだろう。でも、実際にちゃんと証明されているからには、口座は作れませんと言うわけにはいかない。目の前の男が恐怖の大王だってことは信じていないにしても。

「ちゃんと身分証明は確認できましたので、口座は作らせていただきます。本日ご預金される金額はおいくらでしょうか?」

それを聞いた男は、またポケットをゴソゴソと探って、札束をボンッと私の目の前に置く。

「これはおいくらございますか?」

「銀行員なら分かるでしょ? 一〇〇万だよ。何なら数えてみなよ」

「数えるのは義務ですから」

そう言って私は、札束を自動読み取り機にセットして、受け取ったお金を数える。確かに一〇〇万ちょうどあった。

「確かに一〇〇万円確認いたしました。こちらは全額入金でよろしいでしょうか?」

「もちろん。それでよろしく」

「では、口座開設の手続きいたしますので、もう少々お座りになってお待ちください」

口座開設するための用紙を上司に回している間に、私は少し落ち着くことにする。七月に入ってからまだ二日だけど、確実に私は非・平凡な毎日になりつつある。原因はすぐに特定できるし、明日からまた平凡な日常に戻ることも考えられるんだけど、油断はできないわけで。

まして、今日なんか軽く衝撃の告白をされてしまったわけだし。アンゴルモアの大王が何でこんなところにいるか分からないし、何でこんなところに来たのか分からないし。それに昨日言われた言葉の意味も分からないし。とにかく分からないに分からないが、どんどん上書きされていってしまっていて、結局分からないのだ。それに分からないの上書きは今現在も進行形なわけで。

上司に回していた用紙が、目新しい通帳と一緒に私の元に戻ってくる。

「お待たせしております。三十七番のお客様」

私の声を聞いて、男がやってくる。

「お待たせしておりました。こちらが通帳になりますね」

そう言って、私は通帳の中に確かに一〇〇万が入金されていることを男に確認させる。

「オッケー」

通帳も見ずに「オッケー」と軽い声を出す男に、私は少しムッとする。

「御用件のほうは、以上でよろしいでしょうか?」

男はなぜか、掛けていたサングラスをおもむろに外す。

なんだ、結構男前じゃない。それに目がきれいなブルーをしている。これはカラコンの色じゃない。いや、違う違う、ここではそういう問題じゃない。

「そろそろ頃合なんだよ」

「何が、ですか?」

「サングラス」

「意味が分からないのですが……」

「二日目でやっと日中にも慣れたし」

「どういう意味ですか?」

「いや、こっちの話だよ」

「そ、そうですか」

「また、明日来るわ」

私に有無を言わさず、男は通帳片手に去っていく。やっぱり今日も、男の姿に振り返るお客様は多いのだけれど、きっとそれは男がサングラスを外しているからに違いない。

昼休み、食事をしていると、関口さんが昨日の再現のように寄ってくる。

「奈美さん、ご一緒今日もいいですかぁ?」

甘い声を出して近づく関口さんに、敢えて私は何も答えない。

「今日もあの人来ましたよねぇ」

私が何も反応を示さなくても、関口さんは勝手に喋りかけてくる。私はそれに対して無言を突き通す。せっかく食事をしているのに、端からカロリーを消費するのは悲しいし。

「あの人、サングラス取ると、結構カッコいいですよねぇ」

私とは違う自分だけの世界で、関口さんは話し続ける。私は関口さんの話を聞き流しながら、昼ごはんを食べ続ける。

「あっ」

何かを思い出したような声を出す関口さん。ようやく私が聞いていないことに気づいたのかな。

「そうだ、きっとそうだ。きっと、この近くで映画か何かの撮影をやってるんですよ。だから、わざわざあんな格好で来てるんですよ。奈美さん、そうですよ、ね!」

そう言って、私のほうを向いた瞬間、関口さんはようやく現実世界に戻ってきた。

「奈美さん、私の話聞いてくれてなかったんですか?」

卵焼きを頬張りながら、私は軽くコクリとだけ頷く。

関口さんは頬をプクーッと膨らませて、怒っていることを表現しているんだけど、それを見ているだけで、私の肩が微妙に揺れだしてくる。ニコッと笑顔で顔にパンチしてやりたい気分。もちろん、そんなことをするつもりはなく、代わりに言葉で関口さんにパンチを見舞う。

「ねぇ、関口さんって、同姓の友達少なかったりしない?」

関口さんは目を極限にまで見開いてウルウルしてみせる。

「えっ、奈美さんなんで分かるんですか? 男友達は多いんですけどねぇ」

そういうところが同性から好かれないという理由を彼女は気づかないのだろうか。気づいていたら、こんなにはなっていないだろうけど。

「何となく、そう思っただけよ。それじゃあ私、そろそろ仕事に戻らなくちゃいけないから」

「奈美さん待ってくださいよぅ」

関口さんは慌てて、ホットドッグを口の中に押し込める。慌てて口の中に押し込んだもんだから、のどに軽く詰まったみたいで、手で胸をどんどんと叩きだす。

世話が焼けるなこの娘は。私は持っていた水筒のお茶を関口さんに渡し、飲むように勧める。

「ずいましぇん。あびがどうござびます」

「そんなのいいから、飲んじゃいなさいよ」

お茶を二杯飲んだところで、ようやく関口さんは落ち着きを取り戻した。

私もお茶を飲んでいる。

「もしかしたらあの変な男の人、奈美さんのことが気になって毎日来てるんじゃないですか?」

慌ててお茶が口から飛び出しそうになるのを堪える。

「そんなこと、あるわけないじゃないの、ていうか、そんなの私が許さない!」

そう、私が許さない。それはある種権利の悪用だ。相手がお客様である限り、こちらは逆らえないのだから。

「そんな、ムキにならないでくださいよぅ」

あんたが私の立場だったら、ムキになるでしょうに。

「取りあえず、昼休み終わっちゃいますから、私先に行きますね」

おい、キミはどこまで身勝手なんだ? あんたのために私が待ってあげたのに、それはなんだ、それは。とにかく私はダッシュして関口さんの横を通り過ぎる。すると、関口さんも加速し始める。だけど、最初っから勝負はついている。なぜなら、私は大学まで陸上部だったからいくら体力がおばちゃん化し始めているからといっても、そこらへんの小娘には負けない自信があった。結果はもちろん私が勝ったのだった。

「奈美さん、意外、と、速いんで、すね」

膝に手をついて、ゼーゼーと息も絶え絶えに関口さんはかなりくたびれている。

「私についてこようなんて、つまらない意地張るから、そんなに体力使っちゃうんだから」

私のほうも少し息はあがっているものの、これくらいのことはまだまだ序の口なもんだ。ただ、早速エネルギーを使っちゃったのはいただけないけど。

「次は負けませんよ」

何を根拠にそんなことを言うのかは分からなかったけど、取りあえず昼休みも終わったことだから、私の業務を再開することにする。

その後は特に変わったこともなかった。

そうそう、そう言えば男に伝えるのを忘れていたことがあった。

明日は土曜日で、銀行の窓口業務はもちろんお休みなんですよね。

二日目、おわり

執筆:望月大作