何が答えか分からなかった
これは始まる前の偽りのない心境だった。
オファーをいただき、何となく求められているものはわかりつつも、実は僕自身がどこかしらで講義をしたことが、ほとんどなかった。過去ツブヤ大学をはじめ、講義的なトークセッションなどを企画することは多々あっても、自分がその場に立つことはなかった。
でも、まずオファーををもらったことは単純に嬉しかった。
PLANETSを主宰する宇野さんとの関係は意外と長い。
20代前半で上京した当時、本屋でたまたま見つけた書籍が宇野常寛 著「ゼロ年代の想像力」だった。これは僕にとってまさに衝撃的な出会いだった。
新しいサブカルチャー批評として運命的なものを感じ、気づいたときには巻末に書いてあった連絡先にダメ元でメールを送った結果、新宿のとあるファミレスで宇野さんと対面していた。そこからもう15年近くになっているだろうか。
ある少年がTwitterで孫正義3人目のフォローした人だと話題になったことがあったけど、僕にとって宇野さんはFacebookで僕が3人目につながった人だった。
今回のオファー、最初イマイチ求められている正解がはっきり分からないながらも、友人に相談しながら仮設を作り、時間を見つけてはスライドを作成していた。
たまたま6月はいろんな案件が重なっていたこともあって、自分も頭のどこかでピリピリしている雰囲気があった。しかも僕以外のPLANETS Schoolのメンバーが素晴らしい方々ばかりで、それもハイプレッシャーになっていた。
PLANETS Schoolの講義用スライドを88枚作って
当日使う資料もどこまで作り込むのか試行錯誤しながら、自分のなかである程度納得のできるスライドの枚数は88枚になっていた。
幸いにも作成したスライドについては確認してもらったところ、1発OKをもらえたので僕の心が軽くなったことは言うまでもない。
自分は少し気にしすぎる性格のため、受講してくれる皆さんに何を持って帰ってもらえるかについては、ずっと考えていた部分だった。
そもそも修士論文は13万字も書いたことはあったけど、資料スライドを88枚作るような経験は今回初めてだった。
実際にPLANETS School当日を迎えて
当日、家を出る前はド緊張して、何度も何度もスライドを見て反芻していたけれど、当日オンラインで配信する場所に到着してからは、そこまで緊張することもなかった。
それはもしかすると、オンライン配信だったからかもしれない。
個人的に多数の視線を浴びて何かをすることが苦手で、オンライン配信は視線を気にせずに済む。逆に反応が分からない状況でノンストップで講義をやり切らなければいけないことはプレッシャーだった。
結果的に講義は少し時間を気にしながら進行するぐらいの余裕を持ちつつ、スライドに少しアドリブを混ぜながら、ほぼノンストップで45分間、タイムシート通りの進行で終えることが出来た。
そして、ここからが今日の記事の本題。
6月は答え合わせの時期だと感じた
PLANETS Schoolの講義が終わって質疑応答の時間になった際、宇野さんからの言葉を聞いて「ハッ」とすることが多々あった。
まず宇野さんが「まえとあと」のことを深く捉えてくれていることが嬉しかった。「聞くこと」が今回の講義で求められているポイントだった。
まさに僕自身が想っているポイントだった。いま発信する側は自分たちの論を補強するために取材やインタビューをすることが多いように感じるケースがままあった。僕はと言えば、取材すること(人の話を聞くこと)が好きで「まえとあと」をやっている。
そして、宇野さんはよくよくそれを感じ取ってくれていた。それが今回PLANETS Schoolに呼ばれたポイントでもあった。
取材などで相手との関係性があるなかで、僕は圧倒的に論を語るよりも聞くほうが好きだ。自分は人見知りで、たとえば4人以上の人たちを相手にすると、どうしても目線が気になってしまう。
人見知りをしやすい自分がなぜインタビューや取材が好きなのか。たぶん自分の知っている世界がある程度狭ければ狭いほど、取材やインタビューは自分の論を補強する手段となってしまうのではないか。
僕の体感的には、年齢が上がれば上がるほど、世界の広さを感じる機会が増えてきた。逆に言えば自分の世界の狭さを痛感する。だからこそ「聞きたい」ことがずっと増え続けるままだ。それが僕の「聞く」欲求の根源になっている。
聞けば聞くだけ新たな知見が増える。もしそれが長年の友人だとしても、ふとしたきっかけで聞くことで新たな一面を知る場合もある。
さらに単純に話を聞きたい人にメディアという立場でアプローチすることも出来る。つまり聞きたいことを堂々と聞けることは、非常に大きなメリットだと。逆に言えば、ただ聞きたいことだけを聞いているわけで。
自分にとっては単純に当たり前のプロセスを積み重ねていると思っていたら、外から見ると他にない独特なメディアになっていたとすれば、それは褒め言葉なのかもしれない。
自分は聖人君主ではないのでなおさらだけど、自分が聞きたいことを聞き、それがすごく面白い話で、さらにコンテンツとしてメディアに掲載できるなんて、そして多くの皆さんに読んでもらえる機会がることは、嬉しい・楽しい・大好き以外の何モノでもない。
講義中に使ったスライドにも書いたことだが、作り込んだ記事については、もっと専門的なメディアや媒体の専売特許だと割り切り、僕自身に何が出来るのかを考えたとき、それは「聞く」ことであり、自分が見聞きしたものを多くの人たちに知ってもらいたい欲求を昇華させるためのメディアが「まえとあと」だった。
実はずっと同じことを積み重ねている
宇野さんから当日もらった質問のなかで、的確に打ち返せなかったものがある。なぜ「ツブヤ大学」を運営していた人間が「まえとあと」というメディア運営にシフトしたのか。
これについては、大きな枠組みで考えると、僕自身のポジショニングは実は全く大きな変化はないと考えている。「ツブヤ大学」も僕のなかではメディアだった。
それがオフラインでイベントとして開催されるのか、あるいはオンライン上に文字として存在するのかの違いであって、実はどちらも「聞く」ことと「知ってもらいたい」ことが、いつも僕が携わるメディア的な装置の中には必ず存在している。
だからこそ「ツブヤ大学」も「まえとあと」も僕自身だからこそ出来る組み合わせの妙をいつも意識してきた。
ツブヤ大学を閉じることを決めたのは、もちろんコロナ禍がいつ終わるか分からなかったこともひとつ、さらに法人住民税が毎年7.5万円程度掛かり、この法人住民税を支払うためにイベントを企画するみたいな循環に陥ることは手段と目的が本末転倒だったから決断した。
常に自分の中に存在している欲求のセットである「聞くこと」「知ってもらいたいこと」を実現できる手段の最適解が、今は「まえとあと」というメディアだった。
「まえとあと」が3年目に入ったコメントを取材した皆さんにもらった際、よっぴーさんやいちるさん、そして指出さんたちにもらったコメントには非常に勇気をもらい、さらに指出さんにもらったこのコメントは、
望月さんのインタビューは、話しやすく、
淡々と聞いて下さるところ、
威圧感のない普段感が秀でていると思います。
きっとイベントで培われた、
人と人との絶妙なパーソナルゾーンの掴み方にあるのだと思います。
今後も自分が同じスタンスを続ける自信の1つになった。
まえとあとも3年目に入り、コメントももらい、同じ時期に講義をするチャンスもいただき、自然とこの6月前半は自分自身の棚卸しをする機会に恵まれた。
就活のころから自分で意識的に自己分析をすることは苦手だった。そんな意識低い自分でも今回は自然と自分のやってきたことを振り返る機会になったり、「ハッ」とする言葉にもたくさん触れるタイミングになり、自分自身の勉強になった。
マーフィーの法則によると、いろんなものは寄ってたかって重なってくるものらしい。2022年6月は文字通りいろんなものが重なった。でも重なることも悪いことではないらしい。思いがけず、実りのある言葉に出会えた一週間だった。
Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi