中井さんは絵を描いていた
ー中井さんのことでずっと記憶に残ってる話があって。高校当時に中井さんが答辞を読むんだけど、その卒業式のリハの時に、並んでいる普通科の子がそれを見たのか、聞いたのか、「ながっ」とボソっと言った子がいて。僕は全然その答辞が長いとは思わなかったんだけど、その出来事のイメージがあって。いま中井さんは絵やイラストを描いているけど、僕的には文章のイメージがあるんだよね。
中井
うん、そうです。当時は言葉のひとの感じだったね。
ーそれが、いま絵を描いてはるから意外だった。
中井
そうですよね。絵の仕事に入っていったのはアレクサンダー・テクニークがきっかけで、大学を卒業して2年後ぐらいだったかな。実家のアトリエで仕事はしていたんだけど、体調をちょっと崩して。
ーじゃあ最初から文章的なものと並行して、絵的なものが、並行されていたわけではない?
中井
自分の中ではずっと並行してた。大学時代も日記みたいに絵を描いていたり、絵と言葉も両方あるって状態が、自分にとっては馴染みがある形でずっと好きだったんですよ。
学生のとき、大学の専攻が教科教育の国語だったから、中学校と高校の教育実習に行くのね。当然実習もいわゆる国語で言語の部分の教育だから、言葉の比率がより多くなるんだけど、そこに「もう少し自由度があればいいのにな」と心の中では思っていて。
なぜかと言えば、言葉を扱うにしても、言葉だけで状況をなんとかしようとするのは限界があるだろうと思って。私もそうなんですけど、自分から発したい言葉をちゃんと身をもって話しているのか、本当にその人の言葉になってるのかがずっと疑問だった。
そこを培いたいから教科教育だと思っていたんだけど、学校教育の中だと私はフィットしないと分かり、ちょっとしんどいなと思って。
それでその人自身の言葉も生まれるような、言葉じゃないものと言葉が一緒にあるような場が作れたらいいなと思って京都に帰ってきた。
ーなるほどね。
中井
実家でアトリエをやっていたから、「なんかやれそうやな」ってことが直感的にあって。アトリエで働くことは、その当時自分が持っていた選択肢の1番下にあったものだったんだけど、それを結果的に選びましたね。
大学院に行くことも考えたんですけど、そこにはご縁がなかったこともあるし、その当時テーマははっきりしているけど、どうやったらいいかわからなかった。方針は明確に自分で理解してるけど、どうやったらいいのか方法のところがわかってなかった。
そこでアレクサンダー・テクニークに出会ったときに「こうやったらいいんだ」というのがちょっと見えたわけ。
ーじゃあ、それも「あと」なんや。
中井
「あと」ですね、
ー中井さんの中で全てのものが共存してる中で、今のものになったんかなと勝手に思っていた部分があったんで、 疑問が氷解した。
中井
芽としてはずっと持ってたんだと思うんです。それに具体的な術を与えてくれたのが、「あ、これだった」みたいな感じで、あとあとやってきたのかな。アレクサンダー・アライアンス・ジャパンというアレクサンダー・テクニークの学校に行ったことで、そこの先輩であったグラフィックデザイナーの納谷衣美さんと出会ったんですね。最初は彼女と一緒にフライヤーを作ってたんですよ。
今から15年以上前は、まだ紙媒体が京都では生きていたんで、彼女がフライヤーをデザインして、私がその言葉の部分を書いてました。そのタッグで、納谷さんと仕事を始めて、あるときに納谷さんが写真じゃなくて、これはイラストを使おうと言ったチラシがあって。「あっちゃん、書いてみない?」とイラストを描くことに誘ってくれたんですよ。私が絵を描くのが好きってことは知ってはったから、声かけてくれたんだと思うんだけど。
言葉の部分をとおして、いっしょにしごとしていた人から「絵のこともやってみない?」と言われて「じゃあ、描いてみるか」とやってみたら、楽しかったんですよ。で、もちろん納谷さんはデザイナーだから、すごく素敵に一枚のフライヤーを作ってくださるわけですね。だから、自分1人だと行きつけないところに、デザインの力で行けた体験自体がすごいハッピーな体験だったわけですよ。
自分でひとり絵を描いているだけだったら、そういう作品にならなかった。しかも、それが額縁に入れて飾るような絵じゃなくて、情報を載せたフライヤーとして必要としてる誰かに届くものになった。フライヤーの中に絵っていうコンテンツが使われていると、絵の意味が生まれるじゃないですか。その言葉と絵がちょうどいいバランスで合わさったときの幸せを納谷さんによって教えてもらった。
そこから納谷さんがいろんな仕事で「こんな本の仕事があるけど、どう?」とか「描いてみる?」と誘い続けてくれて今に至っています。
ー高校のときは言葉のイメージが強かったからね。
中井
「ながっ」と言われてたの想像ができる(笑)。
ー普通科の子がボソッと言ったから、印象に残ってて。
中井
もっくん、そのときに私に言わなかったのは優しさやね(笑)。
ーいやいや。「いい答辞やな」と思ったし。
中井
なんか今から思ったら、本当にごてごてしてるよね。でもその当時の自分としては、切実で削れなかったんだろうと思う。
でも言葉を書くことが好きだったのも、そこから自分の中ではビジュアライズされてるんですよ。そうなんだけど、そこから絵が立ち上がるように味わって、書くのが好きだった。
ーじゃあ、ある意味ずっと変わらないけど、その表現方法が以前とは違っているって感じってことだよね?
中井
かもしれない。アウトプットの出し方が色々になってきたかな。道がいくつかできるようになったって感じなのかな。
どれも外せない三足のわらじ
ー中井さんは3足のわらじってことだけど、何がメインなの?
中井
アトリエは外せないですよね。アトリエは1回辞めようかなって思った時もあるんです。コロナや子どもが生まれて、子どもが0歳児のころは自分の子どもだけ見てたら満足するんかなって思った時期があるんです。でも仕事復帰も早くて、アトリエも3か月で復帰したんですよ。
そうしたらやっぱりアトリエが楽しくって。私、やっぱり自分の子どもっていう観念が薄いのかな。アトリエってたくさんいる子どもたちに幸せながらも囲まれる仕事だから、自分の子どももその中の1人で、多少特別なところはあるけれど、私が見てる子たちはどの子も面白くて。だから、それは自分でも意外で、あらためてこの仕事をやっていくんだろうって思った。
でも形はどんどん変わっていいと思っていて。このアトリエは父親と母親が築いてきた約30年がベースにはあるけど、アトリエに来るのは今の時代の子どもたちやし、私はいま1人で子どもたちと関わってるんで、やり方もあり方も、どんどん変化しているときかなって思ってる。
昔は1つの曜日に何十人って子どもがいたんですよ。私が子どものときは30人ぐらいいる日があったりして、先生が2、3人手伝ってくれていた時代もあった。でも今は多くて12〜3人ぐらいかな。これも多いほうで、少ないときだと5人とか。そうなると、小さなコミュニティが生まれるわけ。
ー逆に少ないからね。
中井
そうそう。学校も違うし、年齢も違うし、好きなものも違うんだけど、同じアトリエっていう空間に来て、みんな同じようなことをしながら、違うこともしているから、1つの場でいろんなことが勃発するわけですよ。カオスになったりするときもあるけど、子どもたち同士の有機的な関係が生まれてくると、もう眺めているだけでいい時間もあったりする。
私が子どもたちにヒントを出すとか、必要な道具を持ってくるとか、これがあったら面白いかなって材料を運ぶことはあるんだけど、子ども自身が動いていくのを見てるのが今すごく幸せやから、自分がそこをいい感じにできる場を用意しておける人になれたらいいなって思う。そのタイミングを掬い取ったり、その場の空気感を気持ちよくする、ということにもアレクサンダー・テクニークは助けになっています。
それに、子どもたちの姿も、作品とか何かが生まれるプロセスも、日常的に見ている、ということが描いている絵にもつながってるとも思う。
だからどれが優先って言われるとすごく難しくて。必要な質は一緒かなと思ってるんですよ。アレクサンダー・テクニークを教えるのも子どもアトリエも、私にとっては本質的には一緒で、その人にとっての小さい自由を選択できるようにしたいって今は思ってるかな。絵を描くのも、私にとってのチャレンジや自由がひろがることで、一冊の本になったときに誰かにその質が手渡されるといいと思う。
高校のころの価値観、いまの価値観
ー間違った正義感ではないけど、正しいことをしているんだ的なノリは、20代や社会人になって20代から30代前半ぐらいまであったんだけど、色々あった結果、その後の僕の価値観としては、まず結局ベクトルがみんな違うじゃないですか。
中井
うん、そうだね。
ー環境によっても、生き方によっても違うじゃない。だから人の数だけ正義があるし、立場によって正義も変わるんだと。でベクトルって数学の授業で習ったけど、ベクトルを逆向きに変換する熱量って膨大な熱量がかかるから、それをやろうとするのは意味がないなって気づいて。
中井
なるほど。
わざわざ相対するベクトルの人をこっち側に振り向かせる労力って膨大だし、それをやるんだったら、仲良い人たちと一緒に別のことをやっていた方が絶対建設的だよねって考え方に変わった。あとはSNSの影響もあって、基本的に繋がった人は全員抱えておきたい発想が以前はあった。
中井
なるほど。
ーそれがどこかしんどくて、手放すことも覚えよう的な発想で、キャッチ&リリースをうまくできるようになってからは、付き合うレイヤーも時期によって変わり、もちろん中井さんや中学校の友だちとか、ずっと続く人たちもいるけど、常にレイヤーは変わるんで、例えば別に1回リリースしても、どこかのタイミングでまた出会う人もいるからね。
中井
そういうこともあるよね。1回リリースしても、また、ここで会いましたか、みたいなタイミングね。
ーそうそう。そう考えたら、以前よりは生きるのが楽になったかな。そもそも別に関東に来たくて関東に来たわけじゃないみたいなところがあったから。
中井
仕事で?
ーそうそう。立場とか、価値観によって、まあまあ見える景色も変わるなってぐらい、今は以前よりも広い視点で見えてるかな。
中井
素晴らしい。
ー高校の頃は、もう全然、ちっさい、ちっさい感じで(笑)。
中井
今から思えばね。その価値観を育てる時期も必要やったんかなって思うけれども、あのとき濃い時間を高校という圧縮された小さい世界で過ごしたところもあるね。
ーでも、あの当時は自分にとっては高校って広い世界だった。自分は京都市外から通ってたから。
中井
そうだよね。
ー地元の高校に行ってたら、そのまま価値観がシュリンクしてたかも。あの当時は携帯電話もまだ出始めの頃だったし、そういう意味では、まだまだのんびりした時代って言ったらあれですけど。
中井
今から思えば、牧歌的だったね。
ーLINEなんて影も形もなかったもんね。
中井
今の子たちって本当にいいこともたくさんあると思うけど、しんどいことも新たにいっぱいあるやろうなって思うな。
ー当時は地元のコミュニティを抜け出そうと思ったら、抜け出せる状況だったんだけど、今は抜け出せなかったりするわけじゃない。小学校からLINEグループがあったりすると、抜けたら抜けたで、また、みたいな。
中井
そうそう。だからデジタルを通しての世界って、私からしたら一部妄想の世界でもある気がしている。でもそこにもちろんダイレクトなコミュニケーションの影響もあるし、さっきの話に戻るようなところもあるんだけど、例えばLINEは言葉上のやり取りとかスタンプもあるから、非言語的な要素ももちろんありつつ、でもそこのLINEの中で立ち上がるものと、この取材みたいに実際に目を見て話をするとか、一緒に何かをやるのは違う要素がたくさん入ってくるやん。そこのバランス感覚が、これから必要になるんかなって。
子どもも大きくなっていくけど、10年後またどうなってるんやろう?と、すごく思うわけ。
ーそういう意味では矛盾してるなって思うことがあるとすれば、こうやってデジタルとかZoomも含めて、オンライン環境が全然普通になってきてるんだけど、いわゆるSNSも含めたものって、デジタルなはずなのにメインは文字じゃん。
中井
だね。確かに。
ーデジタルが発達しているにも関わらず、求められてるかどうかもわかんないけど、日ごろ使うのは文字。しかもああいうのってX(Twitter)で、1000とか2000リポスト(リツイート)を超えてくるとクソリプがつくんだけど、日本人は文字はほぼ読めるけど、文が読めへんやんってずっと思ってて。
全然書いたことと違う意図の反応が来るって、そういうことだと思うんだけど。そういうのでネットを見てると、例えば音読をさせたときに、読めるものしか実は読んでない人がいるとか、つまり読めないものを飛ばして圧縮しちゃうみたいな。
音読ってめっちゃ小学校のころさせられたイメージしかないんやけど、 ちゃんと読めているのかどうかを見る効果があるんやみたいな。
中井
そうなんだよね。いま子どもと一緒に本を読むことが多いから、そうやって気がつくこともあるというか、声に出して読み上げる楽しさは、久しぶりに味わってるのか、初めて味わってるのか、そういう感じがするときがある。
体を通して出てくる声みたいなことも、自分がアレクサンダー・テクニークに出会ったから、余計に声で違うことが起こってることを感じられるようになったし、口先だけで話すのが、もう嫌だって思ったんだよね。もうそれはうんざり、なるべくそういう話し方じゃない話し方がしたいってすごく思って。
ーその人が明らかに嘘ついてるかどうかって、声色聞けばわかるもんね。
中井
声から言語外の何かを受けとる能力も私たちは感受性としては持ってるわけやん。その感受性ってすごいよね。
Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi