会社員になりたかったまえとあと【前編】

川下和彦
(株)quantum 取締役 共同CEO / Creative Director

川下さんは常に何か企てていそうな雰囲気がある。そして改めてお話を伺って初めて知ったことも多く、川下さんの原点を垣間見ることができた。

Profile

川下和彦
博報堂にてマーケティング、PRから広告制作まで、多岐にわたるクリエイティブ業務を経験。 2017年より同グループのスタートアップスタジオquantumに参画し、様々な領域の事業開発に従事。2020年より、クリエイティブ統括役員を務め、広告創造技術を応用した手法を用いて、 発想から実装までパートナー企業との事業創造に取り組む。2023年より現職。 各種メディアで連載を持つほか、たむらようこ氏との共著『がんばらない戦略』(アスコム)などの著書を持つ。

Index

広告会社のなかで「広告を作らない」仕事

ー今回は川下さんに、“前と後”な話を聞きたいと思っています。

川下

僕の場合、何の”前と後”を語れるかですよね。その点で言えば、新規事業開発の”前と後”があると思います。新規事業開発に携わるまで、僕は広告の戦略やコミュニケーション企画を考える仕事をしてきましたが、広告会社グループにいて広告を作らない仕事に移ったのは、大きな転換点だと思います。

ー自分から仕事は移ったんですか?

川下

自分からです。縁に恵まれたことも大きいですが、僕が今働いているquantumという組織には、2017年にジョインしました。気がつけばもう7年近く経ってるのですが、これからの広告会社グループの成長を考えたときに、新たな稼ぎ方を見つけてそれを実践していかなければなりません。広告会社のDNAであるクリエイティビティを活かして何ができるのかという問いを立てたとき、事業をつくっていく方向に向かいたいという思いがありました。

ーきっかけはあったんですか?

川下

quantumは博報堂グループから生まれたスタートアップスタジオという新規事業開発組織なのですが、きっかけは当時一緒にあるプロジェクトに取り組んでいた先輩がquantumの創業者で、こっちに来ないかというお話をいただいたからです。

もっと前に遡ると、学生時代に起業家を輩出する風土のキャンパスで育ったので、若いころからいつか事業を生み出し、育てることに携わりたいと思い続けてきました。

ーSFCはそういう人が多いですもんね。SFC出身の友人が思い浮かびます(笑)。

川下

幼少期からモノをつくるのが好きだったことや、学生時代に事業を生み、育てることに関心を持ち、クリエイティブなことができる広告会社に入ったものの、最終的にはどこかで事業を創出したいという気持ちがすごく強かったように思います。

ーで、上手くいってるから、quantumでの仕事が7年も経っている感じですよね?

川下

そうですね。確実に、quantumの水は自分に合っているように思います。

会社に入りたいという選択

川下

なぜ「会社に入ろう」と思ったのか。会社のことを知りたかったからです。うちの父は学校の事務職員、母は保育士で教育家系で育ったので、周りにあまり会社員がいませんでした。母方の祖父も保育園の園長でしたし、どうやって会社が営まれてるのかがわからないので、それを勉強したいと思って会社員になりました。

ーそんな視点で会社選びしたことなかったです。

川下

極端に申し上げると、僕は会社に入れさえすれば万歳でした。どうやって会社という組織は事業を営み、利益を生み出しているのか。その仕組みを知りたかったのです。

平林

みんな会社に入るもんだと思って、無条件で会社に入る人が多いだろうから、そういう姿勢で入るのはすごいですね。

川下

いえいえ、自分が育った環境からすれば自然なことだったと思います。僕はあまりにも会社のことを知らなすぎたので。

ー兄弟はいるんですか?

川下

姉がいます。姉は大学を卒業して関西の会社に就職して、今は九州にいます。姉も僕も関西の出身ですが、僕だけ大学から関東に出てきました。

ー大学から関東だったんですね。

川下

そうですね。本当は大学院まで行って、その後も大学に残ろうと思ってました。でも、恩師に出会ったとき、コンテンツ制作やつくったものを人に届ける喜びを教わり、それを大勢の人に届けようと思ったら、会社という仕組みを学んだほうがいいと思ったんです。

ーそうなんですね。

川下

はい。僕は1つの専門職を極めたスペシャリストになることを思い描いたというよりは、それなりに専門性を連続的に習得して、会社のあり方を学び、会社をつくったり、会社を成長させたりできるような人になれたらいいなと思ってました。だから今、その思いに近い仕事ができていると感じています。

出会ったことのない世界に出会うため、関東へ

ー僕も出身が関西で、僕は同志社大学卒で、たまたま就職先が関東だったから関東へ出てきたんですけど、川下さんが関西からSFCへ行ったのは何でだったんですか?

川下

そうですね。いろいろな理由があるのですが、1つは人と同じことをするのがあまり好きじゃなかった。高校は公立の進学校でしたが、「あの大学に進学したら優秀だ」と言われるコースがありました。地方の県立高校なんで地域の国公立に入れれば万歳とか。その中で僕はどう思ったかと言えば、同じ高校の卒業生が1人も進学していない大学の学部に行きたいと思いました。

ーなるほど。

川下

出会ったことのない世界に行きたいと思ったわけです。当時僕が進学した大学の学部は、ようやく一期生が卒業するぐらいのが時期だったんです。ですから、僕が卒業した高校からその学部に進学したのは、僕が初めてだったと思います。そのキャンパス自体できて間もなく、学校自体にパイオニア感があったのも志望動機でした。

また、昔からモノづくりに興味があったので、作家性に憧れを持っている時期に、文芸評論家の江藤淳さんが教鞭をとられていると知ったことも、その学部への進学動機になりました。

ー僕だとそれは無理ですね。完全に人見知りなんで。

川下

いえいえ。実は、その後僕もすごく後悔しました。関西人って地縁的つながりを大切にするじゃないですか。ですから、1人で関東に来ても「別に平気やろ」と思っていたのですが、当時は、SNSはおろか、そもそも携帯もなかったので、孤独死しそうでした。

ーそう、そうですよね。確かに今やったらSNSとかあるんで。 僕も初めて1人暮らしで神奈川に来ていろいろありましたね。

川下

不思議ですよね。めちゃくちゃ寂しかったですよ。今でも関西人に人気の「探偵!ナイトスクープ」観られませんでしたし。正確には観られたんですけれども、ものすごく放送時期が遅れたり、放送時間が真夜中だったり。

ーSNSもなかったもんな。なんか1人でいるみたいな感がありますよね。

川下

そうです。ネットもまともに繋がっていなかった。それこそ当時学生全員がコンピュータを持ってインターネットを使っているのが売りの大学でも、自宅ではダイヤルアップ回線を使えるか使えないかという状況でした。入学当時は、まだ「Windows 95」もなかったですし、最初はDOS/V環境でした。

ーコンテンツがまだない時期ですよね。

川下

そうですね。ですから、誰かとつながろうと思うと、固定電話に頼るしかなかったですね。

ーそうですよね。いや、絶対無理だな。

川下

まあ、相当寂しかったですよ。しかも大学で友だちができて仲良くなったけど、大学院に残ったときにもう1回寂しい体験をしました。 仲のよかった友だちがみんなが学部を卒業しちゃったから。そのまま大学院に残る人って少数派じゃないですか。当然みんな社会人になったら会社のおつきあいが増えますし、仕事も忙しくなるので、それまでのように気軽に誘えなくなって、2度目の孤独体験でした。

ひとり一職ではない時代に考えたい掛け算

川下

専門性について考えるとき、今はひとり一職の時代じゃなくなってると思っています。以前はそもそも寿命が短くて、学べるスピードも遅かった。インターネットがない時代は、1つのことを習得するのにすごく時間がかかりました。それに、寿命が短いわけです。そうなると、1つの人生というスロットに大抵1つの専門性しか入らない。ですから、1つの専門性に特化して、それだけを磨き上げればある程度人生は安泰だったように思います。

そのために、大学も完全に縦割りで専門性になっていたように思います。ですが、今は寿命が伸びたことにより、スロットの枠が伸びているわけです。本当に100年生きられるかは別として、「人生100年時代」と言われるような時代になり、定年になってもまだまだ働けます。一方で、インターネットの発達によって、学習速度、専門性を身につけるためのスピードが飛躍的に上がりました。

例えば、英語を勉強するとしても、僕たちの若いときは紙の参考書しかなかったですよね。そこから、本にCD-ROMが付いて音声が聴けるようになったときは、すごい進歩でした。でも、そこにインタラクティブ性はありませんでした。

今はどうかと言えば、簡単にYoutubeでネイティブが英語をしゃべっている動画を観ることができますし、Netflixにも字幕が付くし、かつ英会話もオンラインで出来ると考えると、圧倒的に言語習得スピードが早くなっているわけです。そうなると、英語同様に他の専門性も学べるスピードが上がっているので、人生というスロットに何個も専門性を入れていける時代になっていると言うことができます。

平林

そのスロット、僕はよく引き出しって言葉を使ってるんだけど、それが多いのはいいなって。でも多いけど全部空っぽだったら、バランス取りながら幅を広げていくというのがとても重要だと思います。

川下

そうですね。だから、昔はジェネラリストと言えば、深さがないとか浅いと言われたんで、ジェネラリストであることに不安な人が少なからずいらっしゃったように思います。 ジェネラリストと言うと、一般的には浅く広くと言われますが、さきほどの話に基づくと、今はある程度深く広く専門性を身につけられる時代になってるから、決して浅く広くではないと思います。

ある程度深く広く学べば、様々な領域で一定の専門性を持てるので、専門分野に鼻が利き、その領域を極めた専門家と会話ができるので、領域を横断したディレクションができるようになるわけです。

平林

ずっと違和感を感じていることで、僕は写真の仕事を社会人の途中から始めてるんだけど、カメラの世界は専門性がすごく問われます。僕が最初に目指したのがモノ撮りだったんですよ。でもあまり好きじゃなかった。

そこで思ってたんだけど、モノ撮りばっかりやったらダメだと思って。それを先輩カメラマンに言ったら専門性がないとダメだってあちこちから言われたんです。でもモノ撮りばっかりやると、物撮りの目線しか見れなくなる。いろんなものを撮るようにしたら、それぞれの領域からのフィードバックを相乗効果で得られる。モノ撮りで経験したものを、どこかで食べ物を撮るときに食べ物に持ってこれる。だから、この道一筋50年みたいな響きが最近変わった気がするんですね。

川下

そう思います。別の掛け算ができるようになってきますからね。

平林

あと、壁を越える。同じような人たちだけでいるんじゃなくて、その先にいる人たちと組みやすくなったんで。

川下

そうですよね。ひとつ世界の中にいることで特化されていく部分はあります。でも別の視点が持てなくなるようなところもあります。別の視点を持つということは、イノベーションを生み出す際にも極めて重要な要素だと思っています。

ある領域のことに詳しい人がそれをひたすら考えていても気づかないことを、蚊帳の外から見たら、なんで「そんなことしてるんだろう?」っていう疑問があり、そうした視点こそが大きな事業につながるアイデアを生むきっかけになるのではないでしょうか。

平林

日本の地方に行くと、2つに分かれてる気がします。沼にはまっちゃって見えなくなっていて、外からの意見を聞き入れづらい状況なっていたり。だけど、そういう外の意見や違う目線を入れて勢いづいているところもあると思う。後者はすごく楽しみなんですけど、なかなか出会うこともなかったり。望月さんはそういう人が周りに多いよね?

ーというか、変な人が多いですよ(笑)。

平林

変な人ね。変な人イコールだけどね。

川下

変な人が道を開きますからね。

平林

変じゃなければ開けないし、空気を読んでたら道は開けないだろうし。

川下

そうだと思います。

会社員になりたかったまえとあと【後編】

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi