小説の書き方をあまり考えずに勢いで書いたまえとあと

望月大作
まえとあと 編集人

今日は唐突ではありますが、2日で小説を書きました。そしてこれは約7000字あまりのフィクションです。

Profile

望月大作
同志社大学大学院修了。修士論文のテーマは「ガンダム」。さまざまな企業に勤める傍ら、十数年前にソーシャル系大学、「ツブヤ大学」を立ち上げる。直近ではWebメディア「十中八九」の編集長を退任後、Webマガジン「まえとあと」を立ち上げ、編集人となる。所持する資格は車の免許以外に、漢字能力検定2級/歴史能力検定世界史2級/知識検定1級。

Index

僕は教室のなかにいた。そこそこ広い大教室のなかには、この時期にしては多くの学生が出ているような気がする。出ている学生の多い講義はどちらかにしか分類されないような気がする。つまり出席点が重視されているから嫌な講義でも出るしかないパターンと、本当に人気があるから学生がたくさんいるパターン。あ、もちろん楽勝だから出ているパターンもあるかもしれない。

教授が入ってくると、とりあえず板書をはじめる。黙々と黒板に書き込んだあと、話をはじめる。と思ったら大きな欠伸をしたので、その場に座っている皆がザワザワっとする。

「オリエンからこんなにおるけど、大丈夫? 3人ぐらいしか伝わらん話を始めるけど、つまらんかったら出てってくれてもええで。俺出席点とか取らへんし。でも出てないと解けへん問題はテストに出るかもしれん。俺の問題は講義ノート買っても解けへんで。毎年新作やからな」

と言うと大きく笑う教授がいる一方、教室はシーンとしたままだった。そこそこ学生が入っているのに、水を打ったように静まり返っている。これを俗にスベっているという。どうやら出席点目当ての学生が多いわけではないらしい。

ほんの数人だけ席を立ったようで、後ろのほうから何度かヒールが床にぶつかったときの独特の音が教室内に響き渡る。そもそもやる気のある学生が後ろの席に座ることはない。だいたいやる気のある人間は、少なくとも僕が目視出来る範囲内に座っている。

教授はこのスベっている状況に不満な表情をしているが、いやいや講義をスタートする。

「掴みが肝心とよく母親に教わりましたが、まっこと、そげんことには失敗しました」

今日はとっても静かで穏やかな日のようだった。

「ここに2つの例を書きました」

教授の説明をそのまま受け入れるとこんな話だった。

まず最初の例。ワークショップやワールドカフェなどいろんな文言が書いてある。真ん中に「やっていることはだいだい同じ」とある。

次の例。ここにも今度はいろんな言葉が書いてある。常識を変える。常識を疑う。マインドセットを変える。態度変容など。真ん中には「やっている想いはだいたい同じ」とある。

2つの例は似ているようで、全然違うと教授は言う。

教室の一番前の席に座り、教授の講義に関してさっきからずっとペンをノートに向けて走らせている上背のある男子が、すっと視線をノートから目の前の教授に向けると、すっときれいにまっすぐ手を伸ばすと、教授が彼を当てるより前に開口一番彼はそう言った。

「いや、これ同じ話じゃないですか?」

獲物に罠を張っていた蜘蛛のように鋭い視線で、でも口元がニヤついている教授。

「君、仕込みじゃないのに、仕込みみたいな話を振ってくれてありがとね。どこが同じだと思う?」

「全部、同じ言葉を言い換えているだけでしょ?」

「そう、そうなんだよ。理解力早いね。でも、言い換えているけど、本質が違う。本質がね」

二人はまったく周りのことを気にせずに議論を続けているようだった。だがしかし、周りにいる学生も2人のあいだに繰り広げられている議論に耳を傾けつつあった。教授は話しを続ける。

「先に挙げた例のワードたちと中身のベクトルは、ワードから中身に向いているわけ。どういうことかと言うと、実はワードの意味はそれぞれ違ったりするわけ。それってどういう意味か分かる?」

目の前で対峙している学生は、少し上ずったトーンで返答をする。

「だから、同じってことですよね?」

「うーん、まだ理解力が甘いよね。つまり中身が同じことを、ただワードをどんどんと別の言葉に言い換えているだけなんだよ。それってどういうこと?」

「別にずっと同じワードのままでいいですよね」

教授の顔がパッと明るくなる。

「そう、そういうこと。分かるじゃん、やるじゃん」

思わず握手を求めるような動きを見せるが、動作をストップさせて引き返す。

「ソーシャルディスタンスって面倒やね。じゃあ後ろの例はどうだろう。あとに挙げた例は同じような想いを持っているけど、やっていること考えていることは実は違うんだよ。つまり同じことをやっていない。だから同じことを言葉を言い換えてずっとやっていることと、同じような想いでやっているが、やっていることが全く違う場合、似ているようで全然違うことだってこと、わからへん?」

思わず立って教授と対峙していた男子は、すっかりさっきの威勢はなくなりしょんぼりした様相で自分の席に座していた。その一方で教壇のうえでドヤ顔をしている教授とその様子をなぜか写真で撮っている学生が何人かいた。

「このベクトルはとっても大事なことで、特に前者のベクトルの向きはある種古典的なものになるわけ。ずっと昔から手を変え品を変え、この前者の手法はあるわけ。新しいものが出たらその言葉に飛びついて、まだ知らない人にそれをさも素敵な言葉のように伝え、支持を集める。

それで、その新しいナントカはふわっとしたままなのに、さもすごいこと、すごい人のように見せる。その手法が良いか悪いか、これについては、ここで僕が述べることはない。でも好き嫌いで言えば、はっきりと嫌いだ」

「それは何でですか?」

さっきドヤ顔の教授を撮影していた一団にいた女子学生が教授に質問をする。この構図は確実に仕込みに違いない。教授のゼミ生か何かなんだろう。

「人間あたらしいものが好きやと思うねん。俺は好きや。でも何でもかんでも新しいことが正義か? 新しいもんが正義やったら、何で京都のお寺は残ってんの? ちゃうやん、やっぱり古いもんには趣があるやん。

俺が嫌いなんは、まだどんなもんかも分かっていない新しい概念やったりワードを、さもこんなんですよーって嘘八百で近づいていくやつおるやん。あれあかんで。啓蒙っていうやつおるかもやけど、あれ洗脳やで。それっぽいニュアンスで素人が言うときほど危ういもんはないと思う。そういうのが正義だと言うなら、俺は正義なんかは信じない。なんか熱い講義なってんな、おい」

ちょっと教授のドヤ顔がずっと続いている。でも教授の言っていることは間違っているようなところはないようにも思う。僕らは基本的に無知だ。無知だということを知れ、なんてことは古代ギリシャのころ、アリストテレスが「無知の知」と呼んでいた。

何にも知らない人はいろんなところからカモにされやすい。特に学生はそうだと思う。すっごく警戒していたとしても、あの悪意はそんな警戒アラートには引っかからずに警戒にポップにやってくる。目の前で繰り広げられているドヤ顔話は、教授なりの警戒アラートなのかもしれない。

「俺が学生やったころ、ある宗教集団がテロをしたことがあった。そんなんやるのはバカなやつと思うやろ? めっちゃ頭ええやつらが、そういうことやったんや。そのニュースを知ったとき、めっちゃショックやった。なんでそんなことするんやって。そこであの図やな」

黒板に板書している図をあらためて指差す教授。

「結局言い換えられたものが、実際は何なのかをちゃんと見定めないといけない。見定めないで飛びついてしまうと、いつのまにかがんじがらめになってしまう。それでええんかと。あかんやろと。実態がないものは結局どんどんずらしていくんよ」

たしかにな。と教授の話を聴いて思う。起業した兄はずっと同じ信念でそう言えばやっていた。コアになるもの、何か目的がしっかりものを持っている人は、話をずらさない。たしかにただミーハーなだけで、何でも飛びつくだけだと、あまりにも取り留めのないものに陥ってしまう危険性がある。

すっかり自分のペースで講義を展開している教授。ばーんと黒板に正義と大きく書く。

「あと、この言葉は危険や」

最初に対決を試みた男子が、また二度目のカムバックを果たす。

「いや、正義は大事ですよ」

「おっ、また君か。ええやん。その正義試したろうか。太平洋戦争のことはどう思ってんの?」

「それは、もちろんあんな戦争はダメだったと思います」

「せやんな。じゃあ、あれはあのとき戦争を決定した人たちは、それが正義やと思ってやっていたことやったら? 間違ってると思って戦争するやつおらんよな」

「それは間違った正義ですよ!」

「なあ、その間違った正義って誰が決めるん?」

「えっ?」

また男子は先生の問いかけに止まってしまった。「間違った正義」このワードは厄介だ。「間違った正義」と決めるのは、その反対側サイドにいる人たちだ。

「間違った正義と決めるんは、戦争に勝ったやつやん。じゃあ歴史にifはないけど、日本が勝っていたら、あの戦争は正しかったってことになるんやで。ってことは正義って何なん?」

すでに男子はもう席に座ってしまっていた。猪突猛進型の人間は思いっきりへし折られると大変に脆い。正義と間違った正義は常に二律背反で存在する。絶対どちらかが正しく、どちらかが間違っている、ということではなく、どっちも正しくどっちも間違っている。

正義なんてものは絶対的な尺度でも何でもない。ただの自意識による感情だ。何かが正しいと思うのはその人の勝手だ。だからこれが正義だ!となることは非常に危険極まりない。ある種あおり運転をやっているようなものかもしれない。

だから正義の押し売りは厄介でしかない。相手がそれを正義と思っているかどうか分からないからだ。つまりそれが正しいと思っているのは、あなただけかも知れない。絶対尺度の答えではない。絶対的な尺度だと思いこむことは良くない。それこそ太平洋戦争に突き進んだ軍部にも通ずるような発想でしかない。

「俺はな、みんな正義持ってると思うねんけど、間違った正義なんて存在せえへんねん。みんな自分の正義が正しいと思ってんねん。だからな、みんなそれを尊重せなあかんねん。つまり決めつけるのは良くない。

もちろん多かれ少なかれ人間やし、決めつけてしまうこともあるんやけど、出来るだけ変わろう変わろうと常に思ってることが大事。お前ら若いんやから、俺よりもそういうこと出来るやろうし。君もな、君もまっすぐなんはええけど、頼むで」

さっきから連敗中の学生にも声をかける。学生は弱々しく教授に頷き返した。その姿に教授はちょっとだけ申し訳なさそうな顔を一瞬した。

「ちょっと話を前に戻すけど、新しいものを作るのは全て最新テクノロジーかと言ったら、そんなことはない。横井軍平さんの言葉で枯れた技術の水平思考ってものがあって、今までにある誰も見向きもしないような技術でも、新しいものは作れるんや。Appleとかそうやろ? こういうのが大切やと思うねん。新しいことばっかりに目を奪われると、結局何も残らんかったりするから。

昔から温故知新って言うやろ。歴史がええのはどんどん新しくなるところや。古いのに新しくなるのって変やろ? でもどんどん新しい発見があると、なぜか古い歴史が更新されてくんや。それが面白い。でも歴史は温故知新の逆やな。新しきを古きに活かす的な、的なやつ」

僕がずっとこんなテンションで話す大人に会った、というか見たのは初めてかもしれない。事前情報だと楽勝般教だと教えられた歴史の授業は、オリエンからまずどこへ行くのかわからないような様相を呈していた。

「歴史は為政者の言い換えと、そいつらの掲げた正義に翻弄された人たちの積み重なりで出来ている。正しそうな振る舞いをするやつには、必ず影が見え隠れする。そしてそんな悪事だと思われる類の倫理観欠如ものは、歴史のなかでは葬り去れていることが多い。なぜ昔の特権階級と言われた貴族が文字や教養を民へ教えようとしなかったのか、なぜ聖書を独占しようとしたのか、それは単純明快で、知恵を独占したかったからよな。

知らないままそれを独占したやつがいた。今はどう? SNSでどんな素敵なことをやっていても、何かしらやらかすことがあれば、すぐに出てくる。掘らずに出てくる。ま、そもそも火のないところには煙は立たないんやけどな。昔の為政者が恐れたことがこれやった。やらかしているほど、きっと情報を統制しようとする。より強引に。何にもやらかしてなければ、別になんでもかんでも見てってーって感じになるもんな」

あー、なるほど。と勝手に実感したことが、僕にはあった。歴史は繰り返すとか、歴史から学べとか言うじゃん。あれってこういうことか。目の前で演説を繰り広げる教授の言葉を頭の中で反芻しながら、そう感じた。

「また変な話するけど、俺チャラいやつ好きやねん。でも言葉だけの意味ではなくて、チャラい風のやつがめっちゃ仕事出来たらギャップで評価上がるやん。なんか適当に見えるのが適当にやってるとそのまんまやけど、めっちゃ仕事できた瞬間急上昇しまくる評価。でもめっちゃ仕事できる風な人が仕事できひんかったときの衝撃度は驚天動地やん。だから適当にしていたほうが、ええで。

できますオーラは危険や。できひんときの衝撃すごいから。ショックの振り幅でかなる。結局最初に書いた図に戻るわけ。しっかり本質見てたら、雰囲気で流されることってないわけ。あと直感で感じる違和感も大事。別に人が良かろうが悪かろうが、合わない人にはとことん合わないし、波長が合うやつはとことん合う。それだけ、それ以上はない。別に家族やないんやから、合わなければ、会わなければええねん。何かしら関係性あれば、そのときに考えればええねん」

教授の話す言葉は少し肩を軽くしてくれそうな言葉だけど、一方で関係性にかんじがらめになっているようなことも、人間ひとつやふたつはあるはず。教授のようにあっけらかんと生きていければ人間生きていければいいけど、声を上げることさえ難しいような難題を抱えている人も多いらしいことは、SNSなんかでときどき流れていて知っている。

何も声を上げないサイレントマジョリティーでいたいつもりではないけど、かといって大げさに何かになるつもりもないし、巻き込まれたくない気持ちがあることも事実だったりする。結局誰かに預けていたほうが楽な自分がいることに気づく。教授の話は続いている。

「この世で一番楽なことは何か。それは誰かのせいにすることや。自分ではなく他者に責任を押し付ければいい。自分はずっと外野に入れる。自分は正しいままでいれる。それを繰り返すとどうなるか、まったく責任が取れない人になる。だって責任のとり方が分からない。だって責任取ってきた人じゃないと、責任の取り方って分からないでしょ。

世の中そんなもん。やったことないことは、やらんほうがええって脳みそが言いよるんや。なんでもそうやで。日本も戦争始めたはいいけど、終わり方知らんかったやろ? 始めることは簡単、継続することは難しい、でももっと難しいことはうまく終わることちゃうかな。

終わり方なんて知らんやん。知らんことは大変やし、知らないことはやりたくない人が多い。でもそういうのも歴史を見ていったら、何となく感じ取れるものがある。でもだいたい終わり方は失敗している人多いよな。たまにうまく終わろうとする人もおるけど」

たしかに安全策だけ取り続けると、実はそれが安全ではなくて実は失敗なんてこともあるような気がする。気がするだけで、そんなことはないかも知れないけど。

「おい、ちょっとこれ配って」

この講義のアシスタントに指示して出席カードを教室に配る教授。出席を取ることに教室内がざわざわとし始める。出席関係なかったんじゃ。。

「なんか教室内ざわついてんな。あれ出席取らへんのと違うって、とかみんな思ってるやろ? そうやで。でもそういうことじゃないんやで。意味不明やろ? 俺はな、俺の話をみんな真剣に聴いてくれてるわけやろ。ちゃんと話聴いてくれる子らを無碍にすることは出来へんねん。

ちゃんとしてる人らには報いることって大事やと思わん? 何にもすることせえへんのに、とやかく言うやつおるやん? ああいうのが一番キライやねん。

だから俺が出来る範囲で俺が出来ることをやってるだけ。出席点って何か減点方式な感じやろ。これはギフト。加点するほうやな。来るのが当たり前やと思ってる子は、なんでと思うやろうけど、こんな講義聴いているより大切なことがあるときもあるんやし、別にそこは気にせんでええで。

もう大学生ぐらいになったら、そのとき何を成さねばならんかなんて、自分自身で考えなあかんねん。俺もそんなことに気づいたのはもっとあとやけどな。というわけで今日の分は終わり。そのカードは教壇において帰ってな」

まだ5分ほど時間があったが満足したのか、語るべきことが終わったのか、講義自体は終わった。友達に出席カードを渡して出ていくものもあれば、すぐさま出席カードを教授に出すと同時に話し込んでいるような学生もいた。

僕はすべてこの講義の話を受け入れてしまってはいけないと思った。口のうまい人は厄介だ。でも気をつけるべきポイントは、本当に直感でそうだと思った。よっぽど良いことしか言わない人よりは嘘がないと思った。良いことしかしてないと思うような、良いことしかしていないような善人ぶった人は、裏ではとんでもないような不義理をすることがある。

人間はアンバランスさをある種善悪の天秤でバランスを取ろうとするのだろうか。誰もその人のすべてを知ることが出来ないとすれば、目の前で講義をしていた教授も然りだ。

僕ら人間はどうしようもない動物だ。そんなことを思っていたら、いつの間にか主役だった教授が目の前にいた。というより僕が教授の目の前に立っていた。

「どやった? 君はまた聴きに来そうな気がするな。何となくやけど。俺の勘はそこそこ当たる確率高いで」

「先生って全部計算づくでやってます? 自分のギャグが寒いことも知ってますよね?」

「それはどうやろ? 今日は調子悪かったんかもな」

「そういうことにしといたろ(笑)」

「あ、それ、俺がいうやつ」

そんな他愛のない話のあと、後ろから肩を叩かれた僕は、その子に教授を譲って大教室を後にした。教授の熱気で少し暑いかなと思っていた大教室だったけど、外に出るともっと暑かった。さっきまでが僕のまえで、これから僕のあとが始まりそうな気がした。

Text:Daisaku Mochizuki