いま絶賛編集中のまえとあと

望月大作
まえとあと 編集人

年度末、微妙にその波に飲まれてしまっているのだった。

Profile

望月大作
同志社大学大学院修了。修士論文のテーマは「ガンダム」。さまざまな企業に勤める傍ら、十数年前にソーシャル系大学、「ツブヤ大学」を立ち上げる。直近ではWebメディア「十中八九」の編集長を退任後、Webマガジン「まえとあと」を立ち上げ、編集人となる。所持する資格は車の免許以外に、漢字能力検定2級/歴史能力検定世界史2級/知識検定1級。

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いま編集している記事のなかで「僕ら」となぜ書きたがるのか、という話がある。たしかに「僕ら」と書いてしまいがちかもしれない。そうこのあとに「僕ら」と書いてしまうのだ。

「自分」だけの意見にも関わらず不特定多数の「ら」を入れることで、さもイニシアチブを取っているかのように。「しがち」なんだろうと思う。

今年40歳になる。とはこれも書き「がち」なんだけど、それぐらい40歳になる実感が湧かない。全然湧かない。むしろ小学生のころよりも若い心持ちの自分じゃないかと思うぐらい顔も心も老けていたのかもしれない。

30代でどこか吹っ切れた。ずっと何か答えを探していたようにも思うし、かなりの面で30代までは社会を目の敵にしていたようにも思える。正直もう前厄がさらに前倒しされたようなことが30代には立て続けに起こっているし、まさか人生で2回もリストラ的なことに合うとは思わないし、まさか3年以上トレーナーを付けてトレーニングを継続出来ているとも思わなかった。

だから結局なるようにしかならないと悟ったときに、どこか吹っ切れたんだと思う。こうあるべきだみたいなものはない。こうなりたいみたいなものも、以前よりもさらにあやふやになってきたと思う。

もちろん「こうなりたい」があることはいいと思う。でもそれがダメだった場合、そこで燃え尽きる場合もある。逆にこうなりたい像とはまったくつながらないようなルートを経由して行ってみたかった方角に急に出ることがあることも経験上知っている。

これは結局そのまま「歴史」を勉強することに似ているとも言える。みんな歴史は学校で習う。その当時そうだと言われていることを習う。でも数年経つとそれは「違う」ことになっているかもしれない。それは新たな資料などが発見されて「歴史」がアップデートされるからに他ならない。

つまり「歴史」は過去を学ぶものなのに、毎年毎年新事実が現れてアップデートされていく学問という不思議な状況がある。

ただその歴史当時を生きている人たちにとっては、別に何も新しいことではない日常を生きていたわけで、結局は後世まで生き延びた当時のプロパガンダを歴史として暮らしのなかに組み込んでしまっている可能性も否めない。

歴史は強者なものが残りがちなものだから、ただ恣意的に書かれたものが残っている可能性もある。その当時に生きた人たちがどんなことを考え、どう行動したのか、本当は自分たちがその目で見て判断することが一番だ。

でも、そんなことはタイムマシンがないと出来ないわけで。そもそもタイムマシンがこの世界にはないと思う理由は、みんながタイムマシンを持っている世の中があったとしたら、絶対に悪いことを考えるやつがいて、結果的に歴史が改変されているはずだが一向にそんな予予感がまったくしないので、タイムマシンはないのではないか、と考えている。

ただ歴史改変が日常茶飯事に行われている結果、みんな個人個人がまったく違う平行世界へ誘われている可能性さえある。

もしもこの世界がマトリックス的な世界だとしたら、さらにVRで輪をかけてしまうような何だかへんちくりんな世の中ですよね、とか。

そもそも論、何を信じるのも自由なわけじゃないですか。だから何だろ、目の前で起きていることをどれだけ変なフィルタリングに惑わされずに、そのまま受け入れることができるかみたいな。

きっと情報過多な時代にひとはフィットしてないんですよ。情報の洪水に溺れてしまう。でもこれは物質的な洪水として襲ってこないから気づかないだけで、いつの間にかキャパオーバーになり、考えることを止め、安易で辺鄙でトンチンカンな根拠のない空虚な言説に惑わされてしまう。いと空し虚し哀し。

宗教も今だったらオンラインサロンだったかもしれない。みたいなことも思う。

だから導入で書いた記事の編集作業中、同年代で考えることは近しい間柄だとある程度シンクロする部分があると感じ、そこは「僕ら」を使ってもええんちゃうかな、と感じるところでもあり。

おかげさまで不惑になる前に惑わなくなりつつあるので、この心持ちを維持しつつ、まったく段差のないようなフラットな心持ちを保てるような瞬間に戻れるような世界になってほしいと願った。

Text:Daisaku Mochizuki