自分の原点のまえとあと

望月大作
まえとあと 編集人

2022年はチャレンジすることが多い年だが、ここであまりまとまった文章として、あまり書いたことのない原点の話を書いてみた。

Profile

望月大作
同志社大学大学院修了。修士論文のテーマは「ガンダム」。さまざまな企業に勤める傍ら、十数年前にソーシャル系大学、「ツブヤ大学」を立ち上げる。直近ではWebメディア「十中八九」の編集長を退任後、Webマガジン「まえとあと」を立ち上げ、編集人となる。所持する資格は車の免許以外に、漢字能力検定2級/歴史能力検定世界史2級/知識検定1級。

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新たなチャレンジが多い2022年

今年はあらたなチャレンジをする機会に恵まれることが多く感謝しています。

そのなかで大きな山場が6月にやってくる。

それは宇野さんが主宰するPLANETS SCHOOLで講師を務めることになったからだ。僕にとっては非常に光栄な依頼だったので引き受けた。

でも、並んでいる面々を見るにあたり、正直びっくりした。

こ、このなかにいてもいいのだろうか?

と疑問に思うくらい、他の皆さんが恐れ多い皆さんで構成されていた。

でも、そのなかに僕がいる意味は何なんだろうか、とも考えた。

ちょっと僕自身の棚卸しをしていこうと思う。

正直、就職活動の自己分析でさえ、本当に意味があるのか?とやっていないぐらいなんだけど。

原点は学生時代なものも多い

そもそも今の僕を形作る原点はきっと大学生のころなんだと思う。それでも、今と比べたら知っている世界は小さかったし、まだまだ全然なんにも分かっていなかったんだとは思う。

ひとつの転機になったのは、学生時代に入っていたサークルで、ここから学生団体の委員を出すことになっており、それに選出されたことだった。

あの当時は本当に「は?」と思った。面倒になったとも思った。

たぶんそこで身につけたのが、何か逆境だったり、自分が望んでいない状況になったときでも、そこにある環境を利用して出来ることは何かないか? ということだった。

そこで見出したことが、講演会を開催することだった。学友会だったり自治会の職になったので、その場をうまく活用して、よく学園祭のような場で行っている講演会の類を実現できないかと考えた。

あの当時はSNSなんてものはなく、電話とFAXの時代だった。あの当時にSNSがあれば、もっといろんな可能性があったんじゃないだろうか、と思うこともしばしばある。

自分自身、最初に講演会を企画したのは2002年の秋だった。2002年のW杯、トルシエ監督の通訳だったフローラン・ダバディー氏のことがトルシエ監督よりも気になっていた僕は、当時のフローランさんの勤務先に手紙を書き、そして電話をし、彼が都内以外ではじめて行う講演会が京都で実現した。

まったくノウハウのないなかで講演会が実現したことに、自分でもびっくりした。これがツブヤ大学にもつながる最初の企画だった。間違いなくこの一歩が人生においては大きな自信になったし、もっと早くから動いていれば、と思ったことでもあった。

その後は井筒監督や藤本義一さん、鈴木光司さんなどを毎月呼び講演会を行ったりした。

その後、当時はまだ東京タワーを書く前だっただろうリリー・フランキーさんにも秋と翌年春に京都まで来てもらった。ツブヤ大学も含め企画した企画のなかで、リリーさんの講演会は、春・秋合わせると1000人は来たんで、過去最多の集客だったと思う。もちろん無料だったこともあると思うけど。

単純に条件さえ整えば、出来ないことはない。と思える経験になったことは間違いなかった。

自分が本来やりたくないことでも、状況によっては自分に価値転換ができることを学んだ。

やっかみみたいなことを言っている人もいるらしいことも風のうわさで聞いたけれど、言うだけの人は何もアクションを取らずに言うだけと言うことも、あの頃から学んだ。ただアクションを続ければ、ついてきてくれる人はついてきてくれることも、意外と大学での経験は大きい。

敢えて苦手なものばかり挑戦したアルバイト

もうひとつ学生時代に大きかった経験はアルバイトだ。自分はもともと、今も人見知りだ。それをある程度克服するために、アルバイトは基本的に接客業だった。居酒屋やホテルのフロントなどでアルバイトをした。コンビニのアルバイトは2回受けて2回落ちたので縁がなかったんだろう。

ホテルのフロントのバイトをしたときは、最初に部屋を案内した親子に対して満面の笑みで「こちらでござる」とのたまった。言いたかったのは「こちらでございます」。のちにドラマ「王様のレストラン」で筒井道隆さんが同じセリフをのたまっていたことを知った。あっちはフィクション、こっちはノンフィクション。父子呆然、母親大笑いとなった。そこから望月が吹っ切れたことは言うまでもない。

学生時代はメディアに行きたい思いだけで就活をして全オチをした。まわりからはまた揶揄されていたようだけど、彼らは今どんなことを思っているんだろう。

学生時代からずっと原動力なのは、何かしらの反骨心だった。揶揄されることは慣れっこで「今に見てろ」がうまくいく場合とそうではない場合があったけど、結局メディアに携わるような機会に恵まれたかと言えば恵まれた。

そういう意味では、地道にこつこつ積み重ねることは大事だった。

いまは大学では禁止されているようだけど、リリー・フランキーさんの講演会をしたときは、SNSがない時代、大学の教室にひとりで淡々と置きビラを1日300枚以上まいていた。ずっとずっとまいていた。今だったらもっといろいろやりようがあるけど、あの当時はそれがベストだと思っていた。

就職活動に関連して思うことは、ちょうどリリーさんの講演会をおこなった季節は、ちょうど自分自身が就職活動を行っていたときだった。それこそ就職活動帰りに、東京タワーでも描かれている当時リリーさんの住んでいた自宅兼事務所にも伺ったことがある。愛犬のフレンチブルドッグは可愛かった。

リリーさん自身、好きなことを仕事にしていますね、と言われることが多いと語っていたけど、本人は別にその意識はないとも言っていた。

僕も正直好きなことを仕事にしているのか、と言えば実際はそうではなく、本当にやってみたいことは大学時代からはじめた脚本家の道だったり(シナリオ・センターに通っていた)、小説などを書くような作家活動への憧憬は今でも持っている。同じ「書くこと」ではあるけど似て非なるものだと理解している。

河合純一さんとの出会い

学生時代、もうひとつ大きな出会いとなって今も続いているのは、レジェンドパラリンピアンで、今は日本パラリンピック協会委員長になっている河合純一さんとの出会い。河合さん自身が本人役で出演している映画の自主上映会を当時所属していたインカレサークルで行うことになったからだった。(大学のサークルとは別)

その映画の監督は花堂純次さんで、きっかけが何であったのかは全く思い出せないけど、はっきり覚えているのは、急に僕に向かって君は尖らずに真ん中で生きようとしているみたいなことを言われて、当時は突然言われたことにイラッとしたんだけど、結局真ん中に生きることなく、ある種尖った生き方をするようになっていた。もしかするとある種の予言だったのかもしれない。

同じようなシチュエーションでイラっとしたことは、過去高校時代にあった。なぜか分からないけど、毎回国語のゲスト講師で来られた俳人の坪内稔典さんの標的にされた記憶が残っている。あれから倍以上の年月が経った今でも腹落ちはしていない(笑)。

河合さんはドラマ「スクールウォーズ」のモデルになった山口良治さんのことを大尊敬していて、なぜか僕は山口さんに直接何度もアプローチして連絡し、ある日突然「山口です」と携帯電話に着信があり、一瞬どこの山口さんだ?とフリーズしたことを覚えている。

その後無事に河合さんと山口さんの対談をブッキングしたことが、これも意外と大きい僕の人生初ブッキングだった。

二人の対談はガクシンの記事になり、その後出た河合さんの本の中にも収録された。普段あんなに饒舌な河合さんが、あまりにも話せない人になっていたことが、非常に印象的に残っている。

さまざまな可能性にチャレンジした大学院時代

就職活動に見事に失敗し、メディアに行けなかった自分は、当時放映していた「機動戦士ガンダムSEED」に触発され、ガンダムをテーマに修士論文を書くことになる。最初はスモールネットワーク理論や六次の法則などと絡めて書こうと思っていた論文は、物語論とマーチャンダイジングで構成された13万字あまりの超大作になることを、まだ当時の自分は知らなかった。同級生には重信房子氏の子どもである重信メイさんもいた。

初期に考えていた論文のテーマ設定でもわかるとおり、結局ソーシャルネットワークに何らか興味関心があり、それがその後の人生にも深く関わっていることを考えると、行き着くところに導かれているような感じをどことなく感じる。

もともと歴史が好きで、日本史・世界史問わず得意だった自分が大学ではいわゆるメディアを専攻したのは、メディアも好きだったからで、最初はジャーナリストになりたいと思っていたけれど、途中で方針転換をし、どちらかと言えばサブカルなどについて見識を深め、そして修士論文はガンダムがテーマになった。大学院では記号論や物語構造、広告論、日本語、同時にシナリオ・センターでシナリオを学んだ。

大学院修了後もメディアに行けたらと思っていたけれど、少し発想を変えてベンチャー企業を受け、受かった会社に行くことになった。入る直前に入る会社がM&Aになり、それは今から考えても、その後の展開を示唆するようなものだったと思う。

しかしながら、最初の会社で学んだことも多く、まさか営業になるとは思ってもみなかったけれど、そのときの経験は今も自分の中で活き続けている。

そして、その後Twitterと出会い、ツブヤ大学ができ、と展開していく。

ツブヤ大学を10年以上続けられたのは、明らかに周りの友人たちの協力のおかげでしかないが、初期にいろいろあったなかで、意地でも続けてやるという意志が、まずは原動力になっていたと思う。

でも今思うのは、結局面白いことを知りたいという欲求の装置として「ツブヤ大学」はあったし、今はそれが「まえとあと」になっている。

ツブヤ大学にもまえとあとにも共通していることは、僕にしか出来ない組み合わせを実現することで、何か新しい発見を少なからず誰かに提供できないか、ということだ。

何か新しいテクノロジーでどうにかしたい、ではなく軍平ナイトでも学んだような枯れた技術の水平思考的なことのように、あるようでなかったような何かを、僕の経験値のフィルターを通して具現化したのがツブヤ大学の企画であったし、いまは「まえとあと」の対談や鼎談、オンラインイベント、インタビューだったりする。

自分が企画するイベントは、出演者・参加者、そして企画者みんなが楽しかったと思えるものを目指している。

なんだかんだと行動してから考えるスタイル

ここに来て、みたいな感じになりますが、宇野さんとの関係は、社会人になって間もないころ、宇野さんが書いた「ゼロ年代の想像力」に感銘を受け、本に書いてあった連絡先に連絡をしたことがきっかけだった。

思えば、ツブヤ大学もTwitterをフォローしてくれた「ぷよぷよ」作者で最近だと「はぁって言うゲーム」などが話題になっている米光さんに会いに行くことがきっかけだったりする。

そういう意味では、学生のころも社会人になっても、とりあえずやってみるというスタンスはずっと変わっていないような気がする。

思えば高校でさえも、行けるのか行けないのか、それこそ一か八かだった。適性検査には合格し、推薦は落ちた。一般入試で合格する確率は90%。無事に合格したからこうやって書いているけれど、もし合格していなかったらと。個人的には合格祈願で北野天満宮に行った際、一度絵馬を落としてしまい、もう一度かけ直したからではないか、とずっと思っている。

今では府立高校でもトップクラスの偏差値だから、同じように受験しても受かる気もしないんだが。大学も一般で落ちてセンター利用入試で入るというミラクルぶりではあった。

そういう意味では、人生の節目節目では、いつもギリギリのところにチャレンジしている。

なるようにしかならないと、思ってもいないところで、それを選んでいることは紙一重なのかもしれない、ひとまずギリギリの紙一重で生き残って、39歳まではきた。

ここ数年ずっと公私問わずいろんな方の話を聞く機会に恵まれ、自分は伝えることや何かを記すことも好きだけど、改めて聞くことが好きだ。

本来は余計なことを話す確率が高いぐらい話好きでもあるけれど、僕が公になった途端に黙る確率があがるのは、招いた人たちの話を聞いているほうが面白く、そして好きだからだ。

だから取材という形式は自分が本質的に好きなことをやっていると言えるのかもしれない。だから取材というものは、個人的には自分の主張を補完するものではなくて、僕自身にとっても思ってもいなかった新たな発見があるほうが面白い。これがテーマだとか、あの人はこう考えているに違いないとか、別にそれは思っていてもOKなんだけど、もし想定と違ったことがあったとき、それを面白がれないといけない気がする。

なぜなら、それが発見だからで。

とっても親しい間柄の友人であっても、新たな発見があるから、個人でメディアを立ち上げ、そして3年目に向かおうとしているのかもしれない。

もちろん、まえとあとを始めたきっかけは、圧倒的な反骨心だけど、いまは自分がどんな角度から、何かを形にできるか、それを追求していきたいと考えている。

さて、レジュメづくりも進めていかないと。

Text:Daisaku Mochizuki