答えは現場にある
アサダ
ローソンでホットコーヒーを買うとね。
ライラ
そう「PICFA」さん。
アサダ
昨日ちょうどローソンでホットコーヒーを買って「これや!」となったんです。※
※https://www.lawson.co.jp/lab/machicafe/art/1447816_7561.html
ライラ
まだ全部集められてない(笑)。これはPICFAさんの施設長である原田啓之さんと話をしたときに聞いたんですが、単純にローソンが「障がい者アートを使います。その賃金が」ではなくて、PICFAさんが地味に2年かけて、ちゃんとローソンさんに「何をしたいか」とか、その取組をする価値は「何なのか」を、コラボレーションしたいとローソンさんから依頼をもらってから2年かけてたどり着いたのがあのコップの取り組みです。
あのコップもローソン自体が「街角にある」ってコンセプトなので、コップを通じて、まずローソンで働く人たちに分かってもらう社員教育の一環でもあるところが肝なんです。
だから単にPICFAさんのものを採用するだけではなくて、お互いに企画を作るプロセスのなかで価値を伝え合うところが、PICFAとローソンの取り組みの素晴らしい点だと思います。
シブヤフォントもいろいろ依頼が来て、シブヤフォントを使わせてくださいという依頼に対しては、もちろん「どうぞ」と言います。
だけど「1回話してみませんか?」と、依頼者たちが本当に考えていることを聞き出した上で「じゃあこれをやったらいいんじゃない?」と、最近はストーリーの部分から、一緒に考えていくことを心がけています。そうじゃないと発展が生まれないですよね。
アサダ
だから「なぜ」それを使うのかが大事ですよね。たとえばPICFAさんのホットコーヒーもそうだけど、シブヤフォントも、それを使うだけで、この世の中「総SDGsな時代」だと「S・D・G・s」をやったという既成事実だけになるんですよ。
ライラ
それが一番怖い。
アサダ
順番が逆なんですよね。それを使うプロセス、たとえば社員教育的なこともあるし、みんなが違う価値観を共有したり、学び合うことの方がよっぽど大事で、それがないと次の展開はないですよね。
だから何年間かSDGsなプロダクトを使い、報告書に「やりました」だけで、「SDGsのこの部分はゴールしてますので」と、ただチェックを付けるだけになっていくのは、もう本当に止めてほしい。
ライラ
私が施設と話をしていても、一番何を目的としているかを大事にしています。賃金向上はやるべきこととしてやるんだけど、それ以上に地域社会でメンバーさんが生きていく構造を作りたいという想いがほとんど。その福祉の観点を忘れちゃいけない。
この前も施設に行ったとき、帰り道にバスに乗ったんだけど、メンバーさんが一緒にバスに乗ってきて「ライラさん」と言ってくれたの。でもその後はずっとその子はバスで黙っているんですよ。
それって周りの人に迷惑だから「しゃべらないでね」と言われたから、彼女は素直だからそれを聴いているだけなんだけど、この光景は何か違うし、もちろん静かにするのはそうなんだけど、でも すごいモヤモヤして。
彼女が彼女らしくたとえば運転手さんにお話することが出来ない世の中ってすごい寂しい。その部分を私は頑張りたい。
シブヤフォントでもたとえば施設のメンバーさんが、自分の絵が採用されたときに、それを本人が自分のお金で買えたり、家族にもそれが知れて、本人の新たな価値を見つけられるところも大事にしていきたい
「答えは現場にあるんだよ」
障がいが「あるから」じゃないではない
ライラ
制作物だけじゃない。
アサダ
制作物は独立して流通するから、その流通した制作物が最初の入り口になり、こういうモノもあるんだなとか、かわいいと認識されることは、それは全然それでいいと思います。だけど、そこから制作物を作った人とは、なかなか誰もが出会えるわけではないじゃないですか。
障がいが「あるのに」すごいとか、障がいが「あるから」すごいとか、「のに」と「から」ってどっちも違うと思います。
だから、障がいがあるのに乗り越えてすごいとか、障がいがあるからすごい特性を持っていてすごいみたいなイメージを助長するような形でモノが流通してしまって受け取ると、結局その作り手の人自身が正しく見えなくなってしまう可能性がすごくある。
ライラ
なんで障がいが先に出ちゃうんだろう。私はすごく気をつけます。自分のことを障がい者って呼んだことがなくて、絶対言わないです。
相手の固定概念がつくから、車いすユーザーも危うく「車椅子を使ってます。はい以上」にしないと、「ライラ」を見てもらうためには、意外と当事者としても言葉には気をつける。常に相手のリアクションを見ながら話すことはあります。
アサダ
だから相手はどの先入観で入ってきているのかを、その場で判断しながら、ちょっと言葉を変えてみたりね。
ライラ
私の場合は、その先入観のパターンが3つぐらいあるからね。外国人と障がい者と女性といろいろあるから。
ここは攻めたいなって思うときは、もう自分が車いすを使っていることは言わずに、現地に到着してから、相手のリアクションを見て、こういう感じのリアクションなんだなって思いながら行動してます。
障がいという言葉はもともと大昔は形容詞だった。この人はこれができないとか、あれができないって社会構造がかわった法律ができ上がって「障がい者」って名詞になってしまった。そこを崩さないといけないと思います。
いま一番は出会うこと。私たちが出会うきっかけをいっぱい作らないといけない。たとえば大学の友人と会ってると自然といいタイミングでアシストしてくれる。
それは別にライラが障がいがあるから助けようではなくて、ライラと付き合っていく中で、ライラはこういうのが好きか嫌いかわかっているからで、それは障がい関係なく誰でも同じじゃないですか。
自分の半径1〜2kmに障がい者が見えていない現状
アサダ
そうですね。さっきライラさんが言った「答えは現場にある」の逆で言うと、どうしても人と出会う際にカテゴリーで出会ってしまう、つまり名詞的な出会いになってしまう傾向がある。だから例えば障がいのある人たちを何か支援するために制度も作られ、それに準じて福祉サービスが作られてきたはずなんですよね。
そこにSDGsもと言うことで、みんな「最初は何なの?」と思いながらも、別に行動に心がこもってなくても、SDGs的な約束や制度が先にあって、世の中が何となくそのノリになり、20年経ったら「もう当たり前じゃん」「今どきそんな発言したらやばいよ」「そんな時代じゃないよ」みたいな感じになった。
では、いつそんな時代じゃなくなったんだ?と。いつからこれは差別というようなことになったんだと。それはみんなそんなに簡単には説明できない。
法律ができたり、言葉がメディアに頻出したり、国際的なルールができたから日本も実施します。が連なった結果、それが「そういう時代じゃないよ」って言い方になっている。だから、それぞれがそんなに深く自分の頭と経験から考えているわけじゃない。
ライラ
そうですね。考えずに進んでしまっている感じがある。
アサダ
世の中的には考えずに進んでしまっていることが、福祉の現場に行くと途端に考えざるを得なくなる。
福祉の現場に行くと、それぞれ当たり前だけど、元々勝手に持っていたイメージのみに括られて思考停止になりがちだった人たちが、それぞれそこでひとりひとりの〇〇さんと出会い話をしたり、一緒に何かを作ったりしていく体験をしていく。それこそが「現場が先にある」ということ。
確かに現場が権利を手にするために、ひとつひとつ言葉にして制度にすることもやらない限り、進まないこともあるかもしれない。制度をつくってきた先人たちに対するリスペクトももちろん必要だし、もともと現場から作ってきたはず。でも制度から先に入ると、再び「人」が見えなくなる。
でもそこはバランスを取りながらも、最終的に必ずそれぞれ個性のうごめきが出る現場があるんだけど、その個性のうごめきが感じられるところまで、どうやって商品ひとつからググーっと引っ張っていけるか。行けなかったとしても、うごめきが感じられる想像力まで引っ張るようなきっかけがあるのか。TURNもそうだったと思うし、それはプロジェクトかメディアか、単体のイベントかもしれないし、どうしたらググッと引っ張ることが出来るかなって。
ライラ
全部連携してメディアもイベントも教育も同時多発的に起きてないと。ロンドンパラリンピックのときに「アンリミテッド」があったじゃないですか。
アサダ
ありましたね。
ライラ
明確に「アンリミテッド」は文化的活動の中で活躍できる障がいのある方の育成と言っていて、それを20年やった結果、先日イギリスのドラマを見ていたら、障がいのある方の役が自然と台本に入っていて、ドラマのなかでその人の障がいのことは言わなかった。
他方で刑事ドラマでは容疑者が明らかにハメられているんだけど、知的障がい(ダウン症)のある方がやっていたんだけど、彼がその役をやることで、警察の会話の中で彼をどうやって扱うかを話し合うシーンがあった。メディアは一面しか見せられないところがあるけど、それをいろんな方面から見せていくことが大事だと思う。
もっと教育現場も多様にしていかないといけないし、それはもっと現場重視のプロジェクト、教育の現場でやるってこと。シブヤフォントに関わった学生でも、その原風景さえあれば、何かつまずいたときに思い返せる。
私自身も原風景としてのサラエボで参加したデザインプロジェクトを思い出したときに、自分がモヤモヤしていた原因は「こういうことがあったからだ」とか「こういうことをやりたかったんだ」と自問自答しながら向き合うきっかけの一つになった。そういう原風景も作っていきたいし、あとは美大やものづくりの現場に障がいのある人たちが少なすぎる。
その原因はデッサン。美大にはデッサンと彫刻の試験があるから、そこで障がいを持った人は自動的に排除されてしまう。障がいを持った人の中には精密なデッサンや彫刻は難しい。試験で出来なくてもいいんじゃないかと。
他の方法でも表現はあるんだから、別に美術大学に限らず大学でも試験のやり方をいろいろ工夫していかないと、いつまでたっても自分の半径1〜2kmに障がい者が見えていない現状だと何も変わらないと思う。
どのように障がいを持った人たちと交流を持つか
ライラ
私はいつも言ってるんですけど、私が外へ出るときは、もしかしたら私に出会う人が初めて障がいのある人に会う機会かもしれないから、そう接することもあるけど、でも正直それはもう疲れたんで、私はできることを通して人と関わりあいます。だから施設の場合も何か能動的なことをやりながら関わり合うのが一番手っ取り早いかな。何か調査をしてお困りですかと御用聞きしても仕方ない。それは調査する側が安心するためにやってるだけで、問題を解決するためにやっているわけじゃないから。
アサダ
今回コロナ禍で、福祉施設の場合、みんなここで暮らしてるんだなって知るのは、要は看板に施設名や名前が挙がってたり、ここでパンを作ってるとか、近所で仕事している人が知っていたりするぐらいはあるけど、具体的にどういう人が暮らしているかになるとハードルがあがる。
たとえばそこが就労のお店をやっているところならまだ入り口がある。でもほとんどの福祉施設は、ほぼほぼ辛うじて散歩しているところに出くわして、あの施設の人だなぐらいのところでないと、なかなか出会わない。もっと遡れば子どもの頃から出会わない環境で学校教育が運営されている面もある。
だからと言って最初から何の配慮もなくただ単に一緒に生活しろとなると、昨年炎上した小山田圭吾氏の件のように、なる可能性がある。インクルーシブな教育とは何かをちゃんと議論しながら生み出す合理的配慮があるのは大前提になってきます。
とにかく障がいを持った人たちと出会う環境が少ないときに、その施設自体は地域に貢献するみたいなメッセージはいったん置いておいて、よく外に出てるというか、何かやってると分かる状況を作っていかないと、待ってるだけではなかなか難しいんだろうと思っていて、それはでかい施設であればあるほどその課題は大きい。横浜のカプカプぐらいの規模感の事業所(20人程度ぐらい)なら小回りがきくし、自分たちの判断でいろんなことが出来る。
入所施設になると、なかなかそういうこともできなかったりするけど、事業所単位で漏れ出してはいく。たとえば「外であの人たちは何かやってるな」というような分かりやすく物理的にも見えるような「漏れ出していく環境」を作りたいと思っている事業者さんがそれなりにある。でもどう振る舞えばそれが面白くやれるのか。しかもこの課題に、コロナ禍が向かい風になって、「漏れ出しにくさ」に正当性を与えてしまうのも、悔しいところはあるし、僕が関わってきた品川の施設では、本当にそれを感じてきました。
でも、だからこその創意工夫は必要で、その意味で僕が先日行った名古屋のある施設だと、昔のいわゆる屋台みたいな雰囲気でリアカーを引き、自分たちが作った籠編みとか傘を売る荒物屋をやってらっしゃった。名古屋駅前にリアカーを引いた一団が突然出現するんです。これはめっちゃ面白い。
ライラ
突然現れる取り組みって、1回目は「何だろう?」となるけど、2回目や3回目に見たときに気になり、風景の中に溶け込んでいく。だから2回目の接点を作れることが大事で、1回だと足りない。SDGsは「1回」を目指してるけど、、、
アサダ
だから結局SDGsは「1回」やると「やったこと」になってチェックが入るから。それを継続してやるには、別にたくさん人が集まってこなくても予期せぬ「出会いの感触」がある、極端な話、仮にモノが売れなくても、話しかけてもらう人がいるところから。「今日は天気がいいからもう1回行くか!」とかね。
ライラ
自分たちの界隈にも名物の人とか毎日見る人もいるもんね。
街角のほっとステーションとして機能するローソン
アサダ
先ほどお話しした荒物屋の取り組みは、名古屋の「さふらん生活園」という事業所がやっています。そこにいる井口直人さんというアーティストは、ローソンにあるコピー機の中に頭を突っ込んでガーっと顔をコピーしてアートを作るんですよ。
先日井口さんの展示を品川で行ったんですが、井口さんはさふらん生活園に行くまでにいつも通っているローソンで、コピー機は2色刷りの設定をして、いろんなものも盤面に並べ、並べたいろんなものと自分の顔が写ってる用紙をどんどん印刷して、何百枚もコピーを繰り返します。
その作品は最近では美術館でも展示されたりとご活躍されています。僕はもちろんその井口さんの作品のビジュアル自体も面白いと思ったけど、ローソンでやってることが面白くて、ローソンでやってる理由があるんですよ。
そのローソンで作品を作る意味が分かる映像を、展示会などでセットで見せることで、伊吹さんが街と関わってることが分かる。
ライラ
その作品の制作場所になっているローソンの人たち(店員)のことが、私は気になりました(笑)。
アサダ
僕とライラさんの共通するところは、ローソンの人が気になってしまうんですよ。ローソンの人が井口さんと、どんなやりとりをしてコミュニケーションしてるのか。その延長から街をテーマにした展覧会だったんですが、一見すると井口さんのコピー機の用紙で出来た作品は街と関係ない。他には一度でも風景を見たら、その風景を完全に覚えて街の風景を再現して描くアーティストの展示がされてるんですよ。
ビジュアル的に絵画で街を描いてるなら分かりやすいんですけど、そのなかでいきなり顔面がコピーされた作品の展示があるわけで。井口さんの作品は街との戯れ方であり、つながり方であるし、井口さん本人はコピーを毎日2回やっています。
そのローソンにも特徴があるようで、お話に聞くとお祭りに参加して屋台をやったり、地域の活動に熱心なところが背景にあるのかもしれません。井口さんの作品づくりをずっとローソンでやっていることにより、近所の小学生もみんな見てるんですよ。
だから小学生がたまに「さふらん生活園」に見学に行ったとき、井口さんを見かけると「ローソンでいつもコピーしてるおじさんだ!」となって盛り上がるんですよ。
ライラ
でも、それぐらいがいいよね。
アサダ
そうそう。本当にいい話だなと思って。別にそんなに強烈である必要はまったくないんだけど、各地でお互いに知られて共有されたほうがいい。そうじゃないと「あそこの施設にいる人たちのことわかんないよね」となる。
どうしても大きい施設であればあるほど本当に中の様子が見えないので、物理的に建物が閉じた建築でわからなかったりするので、その現実を展覧会やメディアを通じて見る機会も含めて「教育」だと思う。
ライラ
全てを1つで現そうとしているから難しいだけであって、1側面・1側面をちょっとずつ積み重ねていけば、それなりに誰にでも刺さるポイントはあるはず。
取材のあと
音声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。
Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi