技術職→ディレクターへの異動が転機
植田さんのこれまでのキャリアで、一番局面が変わった出来事って何ですか?
植田
今回自分の経歴を久々に振り返ってたんですけど、僕、ABC(朝日放送)に入社したのは技術職なんですよ。
えっ? そうなんですか。
植田
ABCに入社して最初に配属されたのはラジオ技術部で、音声(ミキサー)を6年間やっていたんですよ。オーケストラを録ったり、スタジオの生放送の音声をやったり、プロ野球中継や高校野球の中継もやっていました。
その後、ひょんなことからラジオの改革が始まり、ディレクターもミキサーも1人でやることになり、ディレクターがミキサーをやったりで。それとは別に会社でミキサーをディレクターにする方針もでき、僕はその中に選ばれた。だから急に技術からラジオのディレクターになったんですよ。
自分ではそこが転換期だった。入社後ずっと技術職で行くつもりだったのが、 会社の方針で制作の世界に入っていった。そこからラジオ番組制作を長年やっていたら、 本社のテレビ制作に呼ばれたのが36歳のときだった。
ずっとラジオ番組の制作で、36歳からテレビ制作だったんですね。
植田
そう。いま社歴を計算したらラジオ技術・ラジオ番組制作で14年。そこからテレビ番組制作を始めてからまだ12年目。だからまだキャリアとしてはラジオの方が長いね。
え、めっちゃ面白いですね。ずっとテレビ制作だと思ってたんで。
植田
36歳でラジオ制作からテレビ制作へ移ったときに、まず現場で使われている言葉(ex:クロマキー)もわからへんかった。編集と映像にしても、今まで音声の編集はやってきたけど、映像の編集はどうやるのかわからなかった。
そうこう全然ついていけないと思っているうちに、本社制作から東京制作へ異動になり、東京へ出て来て、ゴールデンの番組制作を続けているうちに、まさか、自分が東京の制作部長になるなんて思ってもいなかった。
だから会社の人間からは「植田さん成り上がりましたね」って。すごいちゃかされるよね。そんなこともあって、今も若い子や他部署だったら、僕が技術職で入社したことを知らん人がほとんどかな。
もう技術部門入社のイメージがないんだろうけど、めっちゃハンダゴテとか得意やったし、
スイッチやリモコンも作った。甲子園球場からCMを押すボタンを作ったときは、「僕が作ったボタンを甲子園から押したら、CMが流れるねんや」って感動したよね。
平林
音声ってまた特殊ですよね。みんな特殊かもわかんないけど、本当は難しいですよね。
植田
いや、カメラも難しいですよ
平林
僕は今写真だけど、動画の仕事がどうしても入ってきたときに、音声も絡んでくるじゃないですか。音声やってくれる方がいるけど、 僕も最初はその方たちとの会話のポイントがわかんなくて、すごく困りました。
植田
良かったことは、音で編集をずっとしてきたから、テレビの映像編集も、音からの編集でバーっとつないでいって、あとから画を合わせていくやり方。そこはラジオ制作の経験が活きた。
平林
ちなみに編集って音ベースで今おっしゃったような編集をされる方はあまりいないんですか?
植田
音から編集をする人もいれば、あとは自分の構成、自分の中の台本で編集をしていくとか、 画をどうつなぐかから入ったり、面白い画を繋げていこうって人もいます。
平林
それは実際に、音は後からつける?
植田
音は後からつけていく人もいるし、ナレーションを多用する人もいます。僕は比較的ナレーションをあんまり多く入れるのが好きじゃないので、生の音をいかにつなぐかで編集して、素材が足りないところとか説明しないとわからないところにはナレーションをつけます。
でも、個人的には音ベースの編集のほうがいい気はしますけどね。
植田
話の繋がりとしては、音ベースで合わせていく方が、自分はやっていて、それが心地よかった。
東京へ出てきて11年目
じゃあ東京へ出てきてからも、そんなずっといるわけじゃないってことですよね。
植田
今、東京出てきて11年目かな
じゃ、僕の方が先に東京へ出てきてるんですね。最初にテレビ制作になった時は、何の番組を担当されたんですか?
植田
最初担当したのは『パネルクイズ アタック25』。本社制作は2年しか在籍してなかったんで、『パネルクイズ アタック25』を担当して、最後、児玉清さんがお亡くなりになられたので、その追悼特番を渾身の思いで作った。 児玉さんの次に浦川アナウンサーが司会をやるんだけど。そのリニューアルの段取りをしてから東京制作へやって来た。
東京ではまず『大改造!!劇的ビフォーアフター』を担当し、その後番組の『人生で大事なことは○○から学んだ』もやり、『ポツンと一軒家』を担当した。東京に来てからはずっと所さんと一緒に番組づくりをやらしてもらっていた。
そうなんですね、で、特番で格付けなども手伝ったりされて?
植田
格付けとか、さんまさんのコンプレッくすっ杯とか、あともちろん自分の企画も。
あと、ずっと所さんと番組づくりをやってらっしゃるんですね。
植田
そうそう、ずっと所さんと番組づくりを一緒にやることが出来ているのはすごく光栄。
植田さんみたいな技術からの転向の人って、そこまで多くないですよね?
植田
でも最近は増えてきたかな。今、ABCの人事部長もラジオ技術時代の1つ上の先輩がやってたり、今、バーチャル高校野球を仕切ってるのも同じラジオ技術時代の2個下の後輩がやってたり、増えては来てるかもしれない。
視聴層を逆算して作った『ポツンと一軒家』
ー僕自身が転職を多くしているという話題から
僕らが就活をしていたころは、まだめっちゃテレビが花型仕事って感じがありましたけど、今は他の会社さん志望が多いんですかね?
植田
それでもテレビ業界志望が減ってきたと言われている割には。もちろん以前よりは減ったけど、それなりの人数がまだ受けにきてくれているから、ありがたいなと思う。
ラジオ志望者とか増えていたりするんですか?
植田
ラジオ好きって書いてる学生は結構いるよ。
たしかに。なるほど。ラジオは知らないけど、radikoは知ってるみたいな話があるじゃないですか、。だから、ラジオが好きな若者が増えてるのかなと。
植田
学生に聞いたら、ドラマを見てもTVerで見てるとか、タイムシフトで見てるし、もうラジオもradikoで聞くのが当たり前で、今の子の生活習慣はそれになっているから、 そこで逆に勝っていかないといけないと思う。
そういう意味では植田さんが作られてる番組は録画しても見れるものが多いと思うんで。 だから、ポツンと一軒家も普通にリアルタイムで見てる人も視聴率多いですもんね。
植田
そうやね、ただどっちかっていうと、作ってきた番組はリアルタイム向きかも。視聴者が空いた時間で見るコンテンツとしては選ばれないコンテンツだと思ってます。もともと番組(『ポツンと一軒家』)を作るときに、メインターゲットはシニア層に割り切って作ってる。若い子にももちろん見てもらいたいんだけど、そもそも大きなコンセプトはシニアの人が癒されるというか、楽しんで見てもらえるコンテンツ作りをブレずにやり続けてる。今も後輩がその想いでちゃんと番組を作ってくれている。
若い子向けに作る番組も当然あるんだけど、日曜20時の番組の生理として、当時『ポツンと一軒家』を立ち上げた時ってシニア層が見る番組が少なかった。
日曜20時台ってシニア層にとって大河ドラマはあるけど、それ以外は見るものがなくて、若い子たちは『世界の果てまでイッテQ!』見たり、フジテレビやTBSに分散していってたんだけど、じゃあ、このテレビの前からいなくなったシニア層を取り込めるんじゃないかってところから、思い切ってもうそこにターゲット絞る形で『ポツンと一軒家』はスタートした。
なるほど、そうなんですね。
植田
敬語は間違っていてもいいから、ディレクターは丁寧な言葉を使う。ロケに行くときの服装もちゃんと襟付きにする。ここは年配の方たちに嫌われないような服装にする。取材もそうだし、口調もそうだし、慣れ慣れしい感じで近づいていかない。取材対象者をリスペクトして接する。ここが徹底されて出来上がったのが『ポツンと一軒家』。
その裏側では。昔のバラエティ番組はリサーチありきで、何かがあるからそこへ行こうみたいな作りの番組ではなく、もう失敗でもいいから、とりあえずガチで取材に行こうってところが当時の思考としては逆行させた部分で、それがうまい具合に時代にハマったと思う。
地上波ではない場所で、自分の企画をこっそり考えたい
ABCの技術職を志望しなかったら、いま東京制作部の部長ではないですもんね。
植田
そうね、こんなことになるとは、本当に自分も思ってなかったもんな。
じゃあ、就活で他の会社さんを受けるときも技術職を受ける感じだったんですか?
植田
基本的に放送局しか受けてなくて、それも技術職で全部受けていたから、ダメだったら販売に興味があったので百貨店を受けたいと思っていた。
平林
放送局で技術職に入りたいなと思って、で、その時点での理想的なレベルアップというか、ステップはどういうところが頭にあったんですか?
植田
自分の中では部活の先輩にフジテレビの技術職の方がいて、そこで放送局っていう世界があるんだって知ったのが1番のきっかけとなって放送局に興味を持った。その中ですごい『トイ・ストーリー』が好きでCGで全部アニメを作りたいと思って。
25年ぐらい前だったら、まだCGでテレビのアニメって作ってなかったから、それをフルCGにしたいって想いだけで、面接を受けてました。あと宇宙モノが好きやったから、宇宙の番組を作りたいと勝手なことを言ってたら、 ABCも昔宇宙の番組を作っていたらしく、それが縁で採用されたのかはわからないけど、もう、その時はCGをやりたくて、ABCに入りました。
平林
どこかに思い入れがあったりしますか?
植田
思い入れはやっぱりありますね。ただ実際ラジオ技術部に配属されて、音声の仕事をやったら、それはそれで面白かった。スポーツ中継のセッティングをしてるところで「マイクをここに置いたらこんな音が録れる」とか自分なりにこだわったり。
平林
機械自体が好きなんですか?
植田
機械自体は元々好きです。機械をいじるとか分解するのが好きです。
平林
わりと僕も機械の分解は好きですね。
植田
分解は好きなんですけど、ただ何かを組み立てるのはあんまり興味ないです。だから今で言うと、子どものおもちゃが壊れたら、とりあえず中を開けますね。直せたら「お父ちゃんかっこいい」になるし(笑)。
平林
音声でも、機材が好きな方って、例えば音声だったら、すごくデカいいっぱいつまみがついた機械を見ると「おぉ」っていうのはあるんですか?
植田
あります。僕が最初ABCに入ったころは、機械自体もアナログだったんですけど、それが途中からデジタルに変わっていった。音楽番組を作るときだと、この曲だったら、 フェーダーはこの楽器ならこの位置、この楽器はこの位置と、全部アナログの時はメモしていたんですよ。デジタルやったらもう音声卓に記憶させられるじゃないですか。この曲をポンと押すと、カシャンカシャンと自動的にやってくれるわけで。すごい感動した。
平林
アナログなりの直感的な分かり方ってあるじゃないですか。
植田
そうですね。アナログの面白さはそこなんですよ。イコライザの間でこの辺の周波数をいじったら、もっと綺麗になるなっていうことも、微妙なラインで「あっ、ここ、ここ」みたいなのが探れたけど、デジタルってもうここの周波数は「ここ」ってなってるからね。
平林
画面上のインターフェースは、アナログを模したようなものになってるけど、回したり、スライドしたりするのも画面上にはあるけど、手先ではわかんないですよね。
植田
感触っていうか、探ってる感がね
平林
当時はそこで技術者の方たちの差が出たわけですよね。
植田
デジタルの方が今の時代は絶対いいんでしょうけどね。
平林
未だに制作、直で自分で作らなくなっても、やりたいですか?
植田
そりゃ、制作はやりたいですよ。
平林
やっぱりそうなんだ。
植田
やりたいけど、出しゃばるのはあかんなっていうのがある。自分がプロデューサーをやってるときに、 部長とかその上の人間が出てきて、企画出されて番組やられたらムカつきますよね。
それは後輩に押し付けたらあかんと思っているので、一番いいのは全然関係ないところで、自分の企画が通って、こっそりやれたらええかな。
その可能性も0ではないですけどね。だから海外のフォーマット系を考えるみたいに、企画できないことはないです。僕も部長になってまだ2年しか経ってないんで、そろそろかな。
平林
自分がプレーヤーとして動ける時があったら?
植田
いや、もう動きたいっすよ。
平林
監督&プレイヤーは?
植田
監督&プレーヤーで、たとえば日本で野球の監督をやりながら台湾でプレイするみたいな感じかな。うちの部署で言うと地上波がメインの部署なんで、そこでは出しゃばりたくない。そこは後輩がやればいいし、後輩たちとはちょっと違うところで、たとえばAmazonとか、Netflixでも企画書を考えて出してもええんかなと。
平林
それは可能なんですか?
植田
企画を出すのは自由なんだけど、後輩たちの邪魔だけはしたくないね。
Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi