メディア運営記録が最長になったまえとあと

望月大作
まえとあと 編集人
メディア運営記録が最長になったまえとあと / 望月大作(まえとあと編集人)

まえとあともローンチしてから10ヶ月が経過しました。

Profile

望月大作
同志社大学大学院修了。修士論文のテーマは「ガンダム」。さまざまな企業に勤める傍ら、十数年前にソーシャル系大学、「ツブヤ大学」を立ち上げる。直近ではWebメディア「十中八九」の編集長を退任後、Webマガジン「まえとあと」を立ち上げ、編集人となる。所持する資格は車の免許以外に、漢字能力検定2級/歴史能力検定世界史2級/知識検定1級。

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まえとあと、もうはじまって10ヶ月が経過

まえとあとをローンチしてからもう10ヶ月目に入った。実はこれはまえとあとを始めるきっかけになったメディア「十中八九(すでに閉鎖)」よりも、僕個人の関与としては運営日数は越えた。もうそんなに月日が経ったのか、と時間の流れの速さに愕然としている。

まだまだこのひとりで運営をするメディアは覚束ない足取りでちょっとずつ歩みを薦めている。自分自身も心もとない状況で、でも前に進むためにオンラインイベントを4/20に行ったりしながら進んでいる。

何のためにメディアをやるのか。それは前メディアに対する意地でもあり、アンチテーゼでもあるんだけど、自分の目の前に拡がるものだけが、全てではないみたいな感情がある。最近はよくアリストテレスの「無知の知」について考えている。

知らないことを「知る」ことが大事だと痛感することが多い。基本的に性善説で生きている自分が就職して、社会人になってから世の中には善良ぶって近づいてきては、あり得ない悪意を平気で振りかざす兵器のような大人に出会った。

見るからに悪どいわけではないやつらは、さも良いことをやっているアピールで近づき、全然良くないことを突然仕掛けてくる。でもそれは今だからこそ言えるわけで、当時の自分には分かるはずもない。ここには大きな矛盾も存在していて、経験をしていない事柄に関して、意気揚々と説得をしても、経験していないことだから判断できないのだ。

後から振り返ってそう感じるのであって、後悔が先にたった試しなどないのだ。20代の自分は価値観に存在しているベクトルを無視するような人間だった。皆が何かしら持っている価値観のベクトルは、かなり強固なベクトルになっているため、自分の価値観を植え付けようとしても、よっぽど強引な手段でもない限り、それは無理だった。でも20代のころは何も分かっていなかったので、そのベクトルの方向を変えようと奮闘した結果、ただ残ったのは徒労と疲労感だけだった。

だから僕の変遷みたいなものが「まえとあと」の中から滲み出ることがあれば、それは嬉しいことなのかもしれない。誰も知らない人が、たまたまこのサイトにたどりついて、なにか触発されるものがあれば、それは単純に嬉しい。何かに触発されるようなものが、このサイトで表現出来ているのであれば、それはメディアとしては成立しているのではないか、と思う。

正義と言われるものは、本当に正義なのか?

玉置さんが「正義」は嫌いだ。ということを言っていたけれど、正直「正義」とか「正しい」という概念は、その人にとってだったり、その国にとってだったり、見方や価値観や角度によって、まったくベクトルの位置関係が変わってしまうことは、自分も社会人経験のなかで大いに学んだ。もちろん似たような考えの人はいる。むしろ大多数は似たような考えなのだろうと予測している。行き過ぎた「正義」に出会うことも多くあった。それがより世の中のものをフラットに見なくてはと強く思えるようになったきっかけだった。

自分は正しいという行き過ぎた正義は争いをもたらしやすい。それは歴史の必然だし、だからと言って、それが本当に「正義」なのかは、本人以外は伺い知れないところで、逆に「悪」だと認定される可能性さえ孕んでいる。

だから絶対に正しいというものは存在しない。が僕の結論であり、結局育った環境や出会った人の数だけ、いろんな価値観がある。という結論にしか達し得ないのかも知れない。

多様な価値観の表出と情報の氾濫

インターネットが発達したこと、手のひらで扱える情報端末が発展したこと、それらが多種多様な価値観が実はそこらじゅうにありふれていることを明らかにした。あれだけ視聴率が取れていたテレビ番組も、あれだけ売れていたCDも、かつてのような状況になることは稀になった。

あれだけ視聴率が取れていたのも、あれだけCDが売れていたのも、「見方」や「聴き方」が限られていたからだった。単純にテレビがYoutubeに食われたのではなく、コンテンツの総量が増加したからで、その分の価値観が多様な分、分散したからに過ぎない。

だから単純に面白いから、面白くないから、だけでは論じられないところでもあると思う。ある種趣味が合うか合わないかぐらいのレベルで、コンテンツが消費されるようになるぐらい、いろんな技術の発展などによって、消費できるコンテンツが増えてしまった。

逆説的に考えると、「そこしか」ない行き場に持っていかれてしまうと、そこにあるものでしか消費し得ないことになる。つまり多様なものや価値観がないような状況に追い込むことである。まさに戦争時における体制などはその事例に当てはまる。

結局自分の目の前にあること以外を信じられなくなれば、それだけ自分の意志で知らず知らずのうちに自分の選択肢を削ってしまうことになる。こんなに情報が氾濫している現代でそんなことがあり得るのか?と思う人もいるかも知れない。でも現実にそういうことは起こっている。

これも逆説的に考えると、これだけ情報が氾濫すると、みんな楽なほうへなびいていく。それはつまりそれらしく話す人を信じ込んでしまう。でもそれが罠だということは、僕も社会人になって経験をした。甘い話ほど罠だらけだと学んだ。

ずっとずっと変わらない人間と「無知の知」

人間は元来、楽をしたいと思っている。自分ごとで言えば、トレーナーを付けていなければ、決して2年以上ほぼ毎週筋トレを続けるなんて芸当は出来なかったに違いない。

多すぎる情報に対して、どんな態度で臨むかは現代の必須スキルだと思う。そこを楽しようとすれば、大した能力もないそれっぽいことを言うだけの欺瞞な詐欺師に貴重な時間が掠め取られるような気がしてならない。しかも詐欺師は自分たちを詐欺師だとは思っていないから厄介だったりもするのだが。。

僕らが少しずつでも歩みを進めるためには、自分が何を知らないかを自覚する必要性が一番大事だ。ということになる。「無知の知」があることは情報の氾濫から身を守る方法であり、それは結局のところギリシャ時代から変わらない。

ギリシャ時代からいったい何年が経過してんねん!とツッコミたくなるほど、ギリシャ時代から言われていることと変わらない光景が今も繰り広げられている。そういう意味では歴史は繰り返すという言葉は「真」でしかない。

「まえとあと」は「無知の知」を知るための処方箋のようなメディアであってほしいと、僕個人は願っている。僕自身も取材を通して初めて知ることが多い。僕自身も学びながら少しずつこのメディアを育てていきたい。

ひとまず、まずは「まえとあと」一年経過を目指してがんばります。

おまけ

僕が僕であるためには、何かを残さないといけない、なんてことは、実は少し想っている。

だから、そのためにメディアをやっている面はあるけれど、でもそれだけでは意味を為さない。

別に盗んだバイクを乗りこなすわけでもないし、放課後の校舎の窓を叩き割るわけでもないし、

ただ反抗をするために、このメディアを立ち上げたわけでもない。

やっぱり僕を突き動かしているのは結局「面白い」なんだろうと思う。

面白いの中にはビジネス的な原資がないところが、僕らしい哀しさではあるけど、「面白い」を追いかけていると、面白い人にたくさん会えることが分かった。もちろん変な人に会う確率もあるんだけど、それよりもとびっきり面白い人に会う確率が多くなった。

それは閉じていくような世界の中には面白いものがなくて、オープンな世界に多く面白いものはあるんだと思った。

そういう意味でSNSに十数年前に出会ったことは僕にとって転機で、良くも悪くもそこから自分の人生は転がり始めている。どこまで転がってんねん。とツッコミたくもなるけれど、でも転がるぐらいが、人生の機微を楽しむには丁度いいのかも知れない。

とにかくいろんなことをもうすぐ40歳になろうという今でさえ学んでいるのは感謝なのかもしれない。

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi