梅屋敷をアップデートし始めるまえとあと

茨田禎之
有限会社仙六屋 代表取締役/株式会社@カマタ 共同代表取締役

茨田さんは茨田さんが言うところによると、最初はいわゆる”本家の長男”のイメージのような地主系の大家だった。その典型だったと語る茨田さんは徐々に動きはじめる。が、その前に。

Profile

茨田禎之
有限会社仙六屋 代表取締役/株式会社@カマタ 共同代表取締役。東京都大田区を中心に不動産、プロダクト、人材に対する小さな“開発”をおこなうことでエリアマネジメントにつなげていく手法「マイクロデベロップメント」を日々試行錯誤している。目下、京浜急行線大森町・梅屋敷駅間高架下開発「梅森プラットフォーム」内にてカフェ、インキュベーション・コワーキング施設絶賛運営中。

Index

梅屋敷に戻るまえに学んだこと

茨田

普通の大家だったときは住居を貸して、いわゆる利回りの考え方、つまり入居してもらうことばかり考えてました。あとはあまり入居者さんとは仲良くしないとか、入居者さんから監視してるんじゃないかとか言われることもなくはないので、入居者さんとの距離感って微妙だったりするんですよ。

父からはずっとプレッシャー含めいろいろ継ぐうえで話を聴いてました。でも父のころの世の中の状況は、完全に高度成長期で住宅も不足しているような良かったころの時代だった。だからちょうど人々が都市に集中し始め、まだ建物が建っていないようなところがある局面の父の考え方と、僕らのようにバブルが崩壊してから空き家問題が生じるまでだと当然ギャップがありました。だからその中の違和感をずっと持ちながら何かをやろうと思っても、結局父親が今までの経験での話をするので、僕とは価値観がかみ合わなかったところが多かった。

先代と軋轢があった茨田さんは将来的に家業を継ぐつもりだったものの、外の世界も知ろうと不良債権の処理会社へ就職します。同じ不動産を扱う仕事でも、視点が違えば仕事内容も違う。そういった観点からだった。

茨田さんが就職した会社はリーマン・ブラザーズ証券関連会社から不良債権情報を得ていたが、あのリーマン・ショックが起こり経営が厳しくなった。そのタイミングで茨田さんは実家に戻ることを決意します。

やっぱり茨田さんは街のことをやらなきゃいけない

茨田

まず実家に戻っておこなったことは、不動産屋は土地の価値は分かるんですが、建物のことはあまりにも知らなすぎました。だから建物のことを知りたいと思い、実家に戻った2011年にリノベーションを手掛けているブルースタジオの大島さんと「うめこみち」プロジェクトをやりました。

「うめこみち」プロジェクトを仕掛けたときも、茨田さん曰く面白い会社と建物のことをやりたい思いが強いだけで、現在の彼のメンタリティーからすると、彼がサラリーマンのときに培った情報と経験を持ち帰っただけだった。

その感覚のずれがどれだけひどかったかを端的に表現すると、古いものを活かす手法であるリノベーションを得意とするブルースタジオの大島さんに、茨田さんは新築の建築を3棟分発注するぐらいに修正すべきズレが当時は生じていた。

茨田

(今から考えると)話としておかしいじゃないですか。大家や不動産業界のルールが変わる過程で、次のルールにアジャストしていく意味でブルースタジオさんに仕事を依頼しました。いま梅屋敷でおこなっている活動は、ブルースタジオの大島さんの影響が大きかった。

いかにリノベーションして部屋をおしゃれにして、新しい暮らし方にコミットすることでいっぱいいっぱいのときに、大島さんに「やっぱり茨田さんは街のことをやらなきゃいけない」と言われたんですけど、その時は大島さんの言葉の意味が全然ピンとは来てませんでしたね。

その後もさまざまな案件をブルースタジオの大島さんたちと行なった。そんな折、茨田さんは新たにモクチン企画の連さんと知り合う。アパート改修の仕事をされている連さんは街(都市)に対する目線もすごくある方だったこともあり、この出会いも非常に大きな経験だった。

茨田

連さんはアパートの改修をやってるんですけど、都市に対する目線がすごくあったんですよね。連さんとの出会いも大きかった一方で、いくつも部屋の開発をブルースタジオさんと一緒にやっていました。でも結局それまで複数やってきた部屋の改修作業は、ある意味では対症療法なんですよね。

個別の部屋をお金をかけてオシャレにすると、前よりは高く貸せるんだけど、それでも依然としてまだバンバン建物が立つし、自分の建物の1部屋は良くなるが、全体としてこのままでいいのかなとなったとき、結局街自体の価値を底上げしない限りは、ずっとこの対症療法的な作業をやっていてもしょうがなく思えました。

対症療法は、ある意味ピンポイントでやっていくような感じだったんですよね?

茨田

そうです。幸いにして僕がこの梅屋敷エリアにいくつか不動産を持っていることもあるかもしれないですけど、この街に来てもらう価値や住んでもらうためのことをやっていかないと、対症療法的な物件の改修をずっとやっていてもキリがないと感じていたし、別のやり方があるのではないか。それよりも梅屋敷の街を全体的に底上げするほうが今必要だと感じたんですね。この頃になるとブルースタジオの大島さんに「やっぱり茨田さんは街のことをやらなきゃいけない」と言われた意味を身を持って実感する機会が多くなりました。ある日それこそ突然「こういうことだったのか」と思いましたね。

街の価値を上げる仕事は行政がやるか、あるいは旧財閥系の会社がやるような単位ももちろんあるし、一方でその仕事は別に僕がやらなくても、誰かがやってもらえれば、そこに乗ることも出来るわけじゃないですか。そんな中で連さんとの出会いもあり、ある物件をリノベーションして貸すのではなく、もう少しバリエーションとして仕組みや街の価値に対してコトを起こす必要性を感じました。

カマタ_ブリッヂから動きはじめる

ブルースタジオとカマタ_ブリッヂなるプロジェクトをはじめた茨田さん。カマタ_ブリッヂは単なるリノベーションで建物の価値を上げるのではなく、ビルの1階に家具を作れる機械(ショップボット)を買って設置した。隣にはシェアオフィスを作り、そこには建築家やデザイナーといった家具を作れるような人が働く。つまりカマタ_ブリッヂの入居者がシェアオフィスの人たちと一緒に家具を作ることを家賃に紐付けてパッケージにしたことは画期的だった。

茨田

そのパッケージで1部屋300万かけて部屋を作っていたものが機械に置き換わり、その機械を活用して部屋の内装を作るサイクルにしたんですよ。そのサイクルによってそもそも違いが作れます。もう1つカマタ_ブリッヂのオーナーとしては、ビルまるまる1棟100%稼働してたら、それはそれで目指すところなんだけど、逆に言うと100%稼げないってことなんですよね。

もちろん仕事で稼げる幅には天井はあるけど、やったらやった分だけ稼げるビジネスもあるわけじゃないですか。でも不動産は部屋が全部埋まったらもうあとはそれ以上は稼げない。もちろんそれで自由な時間ができて嬉しいと左団扇な人もいる。僕はもう少しリスクとリターンの関係が不均衡と感じたのか、100パーセント以上の稼ぎを不動産ビジネスの中に組み込みたいと思った。

だから機械に投資をして部屋を作り、仮に機械を使ってプロダクトが生まれ、出来たプロダクトを販売することができたら面白いと考えたんですよ。もちろん建物一つの部屋の価値・建物の価値を上げる目的もあったんですが。そもそもこの梅屋敷のある大田区って製造業が多いじゃないですか。

そうですね。

茨田

大田区の町工場の人たちとデジタルとデザインで家具を作るような人たちと混じり合ってプロダクトができれば、このエリアも街のものづくりとしてアップデートができると感じた。そのアップデートを繰り返していけば街の価値を上げつつ、1個1個の不動産もありきたりじゃない商品を作れると思ったんですよね。

その結果、カマタ_ブリッヂのシェアオフィスに入った建築家を中心としたメンバーと、個別にいろんなプロジェクトが起こるようになった。茨田さんとやるプロジェクトもあるし、それ以外のメンバーだけでやるプロジェクトもあった。

梅屋敷のエリアの京急が高架になった

茨田さんはさまざまに始まったプロジェクトを今までの大家業としての職能の拡張でもあると感じていた。ビジネスの可能性を感じていたちょうどそのころ、京急の梅屋敷駅のエリアは線路が高架になったタイミングだった。梅屋敷の高架下はまだ計画がない状態で柵が掛かっていた。

茨田

京急は路線を高架化するのが一番の目的で、高架下の活用にはあまり意識がないと感じました。梅屋敷の高架下に結局どういうプログラムが入るかによって、街のイメージが変わってしまうじゃないですか。ここは何としてでも、梅屋敷の発展に寄与するようなプログラムを入れたかったし、何よりも高架下が駐輪場・駐車場になったら、それはそれでニーズがあるのかもしれないけど、その後の街の発展は、もうそこで終了じゃないですか。だから梅屋敷の高架下の開発が、この街の将来を決める可能性があると思ったんですよね。

しかし大問題がありました。やりたいことがあっても、茨田さんには京急につながるツテが存在していませんでした。

茨田

梅屋敷駅の高架下の開発に関わることはすごく重要だから、とりあえず何か行動を起こそうと思い、モクチン企画の連さんと梅屋敷駅の高架下の利用方法を構想しはじめ、勝手に梅屋敷の高架下の活用方法のプレゼン資料を作っちゃいました。今だったらもう少し賢くなってるから、小さくイベントをやることを考えたかもしれません。当時はまだそこまで企画の手法を知らなかったし、策があまりないようにも思いました。だから僕らはしっかりとした冊子を2冊作りました。

平林

そういう体裁になっていると、それだけできちんと見てくれますよね。

茨田

ですよね!

平林

A4でプリントされたようなものとは違いますからね。

茨田

違います。今からすると、くすっと思うところもあるんだけど、しっかりとした冊子を持った力がやっぱりあって、こんな冊子までやるんだ、こいつらバカだなみたいなところも含めて印象に残るし、私たちの本気度が伝わるじゃないですか。できた冊子をどうやってばらまこうか考えました。比喩的にいえば、かなりのゲリラ活動ですよね。向こうは政府軍でこっちは一個人の集合・かたまりですからね。

平林

爆弾を持って飛び込んでいくようなものですよね?

茨田

爆弾(冊子)は作ったぞと。しっかりした冊子は結構な破壊力があるんじゃないか。でもそれをどう届けるかって大事じゃないですか。作るのも手口もふざけていたら、それは奇跡以外の何者でもないし、今の活動はなかっただろうと理解してたんですよね。だから殺傷能力はあったけど、しっかりとした冊子という武器の使い方次第だなと思って。

平林

自分の家で爆発しちゃったら意味ないですもんね。

茨田

あるいはいたずらに政府軍を刺激しちゃって鎮圧されることもあるじゃないですか。京急にしてみたら人の資産のことに勝手に口出されるわけですから。なかば公共みたいなところで、不動産屋だったから、まちづくりとかマンション建設でも反対運動がたまにあるじゃないですか。それと一緒にされたら嫌だったんですよね。

茨田さんは制作した冊子を上手に交渉材料として使い、京急とのコンタクトを取ろうとある方法を思いつき、早速実行に移します。結果はどうだったかと言うと、、たまたまの幸運も重なり、見事に京急への突破口を見出した。

梅屋敷をどうやってアップデートするか?

茨田さんは梅屋敷で愛された福田屋のクリームモナカを事業承継し、梅屋敷駅の高架下に仙六屋というカフェを作った。

京急まではつながったが、最初に会うことが出来た人は、別部署だった。しかし当時の茨田さんは別部署だろうとかまわず想いをストレートにぶつけた。そうするとその想いが伝わったのか実際に梅屋敷駅の高架下の事業に携わっている担当者につながった。

茨田

紙一重でした。その京急の別部署の方もこちら側のやりたいことを理解してくれた。純粋に街のことを思っているし、京急さんも将来に対しての想いがあったからです。実際に担当の人をご紹介いただいてから、紆余曲折あったんですが、最終的に梅屋敷駅の高架下開発を僕らが一緒に組んでいるプロジェクトメンバーと一緒に扱えることになったんですよ。

しっかりとした冊子を元に資料をどんどんとブラッシュアップし思い描いていたことを着実に具体化していった。そこには製造業への想いと梅屋敷の街の価値を上げたいという純粋な想いがオーバーラップしていた。

茨田

正直何が京急さん側に効いたかわからないんですが、僕はアイディア云々よりも京急さん側にコミットしたことだと思ってます。このプロジェクトは梅屋敷駅の高架下のひと駅区間を京急さんに資金をいただきながら一緒に考えたんですけど、単に計画だけではなくて、我々は梅屋敷駅の高架下の場所を借り上げる契約も含めたんです。よくある都市計画だとプランを出して終わるけど、僕らは計画に対してリスクと責任を持ちました。

高架下の場所を借りることでですか?

茨田

そうです。それが京急さんに刺さったのかもしれない。そのコミットが長期的に他のいろんなところでの計画とは差が出ると思ってます。まだ丸2年が終わっただけなんですけど。残りの期間で本当に我々がこの梅屋敷エリアを変えられるかどうかの現在。2010年ぐらいに大家として梅屋敷に戻ってきて、個別の不動産をいろんなメンバーと街を意識しながら面白くしていったらここまで来れた。もちろんそれを誇りたいわけじゃなくて、誇りたいのは結局これまでの活動を通して街が本当に更新されたのかが大事で。

よく言われるジブンゴトってあるじゃないですか。だいたいの街づくりはタニンゴトの人が適当に口を出して、それこそアイデアプランだけで終わる。ワークショップして模造紙書いて発表しましたイエーイで終わる。(終わっちゃいけないんだけど)

茨田

そこでお金をもらって終わりじゃないですか。そこを変える必要があると思います。とてもむずかしいけど。僕らのやっているプロジェクトはお金をもらいつつも、ちゃんと京急さんに対して家賃を納めるようなビジネスを幸運にも回しているので、まったく違う結果が出たらいいなと思いますね。

取材のあと

声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi