高知が嫌いだった
もともと高知のご出身なんですよね?
和田
そうです。
大学が東京だったんですか?
和田
そうですね。大学で初めて上京して、ギリギリ住んだのは神奈川だったんですけど、大学に入るまでは生まれも育ちも高知県でしたね。
高知の人は地元愛が強いんですか?
和田
高知出身の子は地元愛が強い人が多くて、隙があれば高知へ帰っているイメージはあります。私もコロナ前までは隙さえあれば高知へ帰ってましたね。
東京で学生生活を送って高知のテレビ局でお仕事をされていたと思うんですが、もともと地元の高知で仕事がしたい想いが最初にあったんですか?
和田
いえ、実は全然なくて。もともとは高知県が大嫌いだったんですよね。
あら。僕が最初に思っていた展開とは違って意外な展開ですね。
和田
本当ですか?
はい。でも逆の意味で良いと思ってます。
和田
私は本当に地元が好きじゃなかった。でも、もともと小学生のころからアナウンサーになりたい夢があって、上京して大学を決めるときも、ネットを見るとアナウンサーを輩出している大学のランキングがあるんですけど、そのランキング上位から大学を受けていったんです。
そのリスト上位から受験して、何番目かで合格した大学へ行くことを決めたんですけど、決めたときは高知に戻ってくるとは思ってませんでした。それぐらい地元のことが当時は嫌いだったんです。
大学3年生くらいのアナウンサー受験のころになると、アナウンサー志望の人たちは全国のテレビ局を受ける人が多くて。私も全国のテレビ局を受けようとエントリーシートを書きはじめたんですけど、特に地方局のエントリーシートにはほとんどの確率で「なぜこの局を志望したんですか?」とか「なぜこの県を選んだんですか?」などの設問があって。
特に地方局のアナウンサーは離職率が高いのでので、その県でモチベーション高く働いてもらうためにもそういう設問があるのだと思うんですが、私はその回答を書くときに明確な理由が見つからなくて、手が止まってしまったんです。
ごんぎつねから始まったアナウンサーへの夢
和田
もともとアナウンサーになりたいきっかけは、新美南吉の童話「ごんぎつね」でした。ごんぎつねを授業で朗読したとき、先生に「ゴンの気持ちが伝わったよ」と言われたのがきっかけで。自分の声や表現を通して誰かの気持ちを代弁したり、伝えることができたことがすごくうれしかったんですよね。
それはつまり「自分もゴンの気持ちを理解できたんだ!」って思えたのが嬉しかった。私は小さい頃から人の気持ちにすごく興味がある子だったので、余計に嬉しかったんです。それで当時、先生に誰かの気持ちを代弁したり表現できたことが嬉しいと話したら「じゃあアナウンサーに向いているかもしれないね」と言われたのがきっかけで、そこからずっとアナウンサーに憧れてたんですよね。
だけど実際に「何でこの県なのか?」と問われたときに、理由がなかったんです。アナウンサーになりたい想いはあるけど、「なぜ私はアナウンサーという手段を実現したいんだっけ?」と目的になるものが明確に見つかってないことに気づいて、「自分の叶えたいものって何だろう?」と1年くらい悩み、考える期間がありました。
もう本当にずっとアナウンサーになるんだ、としか思っていなかったけど、アナウンサーじゃない選択肢もあるのかもしれないと、夢が分からなくなったそのときがめちゃくちゃしんどかったです。それこそ就活生ならではの自己分析をしたり、当時100人以上のOB・OG、そこから繋いでいただいた社会人の先輩たちにお話を聴きに行ったりしながら、自分がやりたいことや自分の中の強い思いを探しました。そこで見えてきたのが、「私、高知がすごく嫌いだな」という感情だったんです(笑)。
なるほど。
和田
その気持ちだけはすごく強いなと思った時に、ただそれは純粋に”嫌い”というだけではなくて、その背景には「高知がもっと良くなったらいいのに」とか、「何でこうなんだろう!」といった課題感が強くあることに気づきました。好きの裏返しが嫌いの感情とよく言いますけど、まさにそれで。だから大学生のときも高知が嫌いなんだけど、高知のことを知っておきたくて、仕送りで母からずっと高知新聞を送ってもらったりなど情報収集はしてて。それは、誰よりも強い高知に対する課題意識なのかもしれないと思ったんです。
高知を元気にすることだったら、自分は一生をかけてエネルギーを注げるぐらい強い感情があると気づいてからは自分の就職活動の軸を、高知県を盛り上げられる仕事に決めました。
どうせなら、なるべく大きい形で高知を元気にできることがしたいと思った時に、やっぱりその手段としては、アナウンサーが一番やりたいことでした。あとは当時IT分野も伸びているころでしたが、高知県の場合は高齢者が多いこともあり、視聴率が低下している首都圏と比べてもテレビの影響はまだ大きくて。だからIT企業で高知を元気にできるようなメディアやアプリのようなサービスを作るのか、それとも高知でアナウンサーになるのか、IT系の仕事とアナウンサーの二択だと考えました。
高知県のテレビ局からアナウンサー職の募集が出るまでは、渋谷のIT企業に内定をもらい、このままIT業界で生きていくのかなと思ってました。でもギリギリ4年生の秋頃に高知県のアナウンサーの募集が出て、受験をしたところ内定をいただくことができました。最終的にどちらの形でも高知を元気にすることはできると確信していたのでとても悩んだんですが、小さいころからの夢だった「想い」が勝って、アナウンサーになることに決めたのが背景ですね。
大好きだったから高知の課題を人一倍感じていた
和田
高知が嫌いだったのは、高知に課題があると感じていたからで、それは”好き”の裏返しなんだと学生のときに気付きました。
就職して高知に戻ってからは、課題に感じる気持ちは持ち続けながらも、その感情ははつまり高知への愛なんだということを認識できていたからこそ、全ての仕事が自分にとってのモチベーションとなって仕事に向きあえてました。
地元に戻って仕事を始めて以降、感覚的に地元の新しい発見ってあったんですか?
和田
そうですね。大学生のときに感じていた自分の課題感はどこか表面的なもので、知り合いと街で必ず会ったり噂がすぐ広まるような閉塞感が嫌だとか、遊ぶ場所が少ないのが嫌だとか、単純に田舎が嫌いという感覚に近かったと思います。当時、その課題感に向きあって解決するためにはどうすれば良いのか?というところまでは考えようとはしていませんでした。
でも、いざ高知に帰ってきて課題に向き合おうとすると見えてくるものもあって。たとえば高知の人からするとネガティブに感じる部分も、県外の人からするとポジティブな側面があるんですよね。たとえば、高知県の人ってすごくストレートな物言いな人が多いんですよ。それが当時の私はキツく感じて嫌だったけど、一度上京して高知に帰ってみると、そうやってストレートに言葉を発する県民性って貴重だよなと感じて。
東京の人はオブラートに包んで本音を言わない人が多いかもしれないけど、高知の人って素直にものを言うから、たとえばミーティングを行ったら本音で話が進むので意思決定が早い側面もあったり。私が高知に対して”嫌い”だとか課題だと思っていたところは、ある種高知のいい部分でもあることに気づきました。その表裏一体となっている良い部分をもっと広めていくことで、私のように徐々に高知を好きだと捉えられるようになる高知県民も増えていくのではないか思い、その視点を高知の魅力を発信する番組制作などに活かしていましたね。
ツクルバとの偶然の出会い
和田
本当にアナウンサーの仕事が大好きで、何かが嫌だったから辞めた、という感情はゼロです。手段としても目的としても、アナウンサーは自分にとっての天職だと思ってました。ただ、高知のテレビ局で4年ほど働くなかで、高知に住んでるからこそ強く感じた課題があって。それは、若い人が集まりたいって思う場所、何か新しいことが起きるかもと感じられるようなワクワクできる場所が、高知には本当に少ないこと、そしてイキイキと働いている若者が少ないということでした。
高知に戻って、私が休みの日にどうしているかと言うと、スタバに行くか、友だちと飲みに行くか、イオンに行くか・・。新しい発見ができるようなワクワクする場所を見つけるのが難しかったんですよね。仕事においては、私は東京の大学を卒業したこともあって、アナウンサーの仕事をしながらも、休みの日には東京で行われる友だちの結婚式の司会を受けたりしていました。
私自身は東京にコミュニティがあったし、副業している人が周りの友だちにも当たり前にいたから、比較的自由な働き方が出来ていたんだと思います。だけど高知県ではそういった自由な働き方をしている人は少なくて。考えてみると、そもそも働く選択肢が少ないこと、働き方の幅が広がるような機会が日常に見つからないこともあって、イキイキ働いている若者がすごく少ないのかもしれない、と感じました。
みんな生きるために働いているような感じで、高知で仕事の話をワクワクしながら話せる友だちがほとんどいなかったんです。これがすごく強い課題だと思っていたし、寂しさも感じていました。
そうすると結局高知から若い人たちが外に出ていってしまうと帰ってくることがなかったり、県外に出たまま高知と関わることが無くなってしまうことが多くて。周りの高知の友人の話を聞いていても、やっぱり働くことに幅広い選択肢を持ちたい人が多かったんですよね。そこから、私もそうでしたけど、人伝いだったり、人伝いから企んでいくとか、知り合いから広がっていく仕事の膨らませ方が出来たりする、たとえば高知にイケている若者が集まって仕事が生まれるような場所があったらと考えるようになりました。当時、シェアオフィスという言葉はなんとなく知っていたので、一度高知のとあるシェアオフィスを見学に行ってみたんですよね。
和田
ところがそこが全然盛り上がっていないとのことで、運営者の方も苦労されていると話されていて・・・そこからいろんな場所を調べてみても、高知でモデルケースをやってもなかなか難しいんだということが分かりました。そこから県外にある場作りや人が集まって面白いことが起きたり、仕事が生まれたりする場所を探しているうちに、現在の職場であるツクルバを見つけて。
当時はツクルバやツクルバが運営している「co-ba」というコワーキングスペースのことは知らなかったんですが、調べてみるとシェアオフィスとコワーキングの概念って全然違うんですよね。たとえば、シェアオフィスは複数の企業や個人が空間をシェアして安く働くことができる場所ですが、コワーキングはその名前の通り、Co・Working = 共に働くことを意味しています。
コミュニケーションを敢えて誘発することで、そこから人との関わりが生まれ、仕事などのコラボレーション、イノベーションが生まれるのがコワーキングの概念ということを、ツクルバを知って初めて認識しました。ツクルバはco-baを全国で運営していることもあり、自分がいま高知で一番解決したいと思っている働く選択肢を増やすことや、若者が集まる場所を作ることが、ここでは叶えることが出来そうだと思いました。
それでツクルバの入社試験を受けたんですけど、本当に転職をするのか?という部分ではすごく悩みました。前職のアナウンサーを辞めたかったわけではなく、ずっと夢見ていたものだったから、それを手放すのも怖かった。すごく悩んだんですけど、ツクルバから内定をいただき、自分の中で熟考した結果、いま等身大の自分が感じている高知への課題を解決したいという感情に素直になろうと腹をくくり、局アナウンサーを手放すことを決めて、コミュニティマネージャーに転職をしました。
ただ手段として「伝えること」はすごく好きだし、たとえばアナウンサーとコミュニティマネージャーを掛け合わせながら新しい働き方もできるかもしれないから、コミュニティマネージャーとしてツクルバにジョインをしつつ、アナウンサーはフリーで続ける形で東京に来ることを決めました。
一生をかけて課題には向き合っていく
将来的にはツクルバでいろいろ学んだことを高知に持ち帰って、コトを起こしたい想いもあるんですか?
和田
はい。でも全然急いでなくて。自分の感情の中で高知への気持ちが一番強いことは変わらないし、一生「高知」を軸に何かをやっていくと決めているので焦っていません。あと、ツクルバってチームで共に前を向くことを大切にする文化があるので、この会社に入って改めて自分が共感出来る人と共鳴しながら何かコトに向かっていくのは、すごく楽しいことなんだと気付かされた部分がありました。前まではひとりで頑張ろうとする気持ちが強かったんですけど、いまはそうではなくて、ここからは一緒に高知を元気にするという目標に向かって走ってくれる仲間を見つけたいと思っています。
同じ想いを持つ人たちと、30代後半〜40代前半ぐらいにかけて、場を作るのか、プロジェクトを起こすのか、何かしらの形で高知には自分のやってきたことを還元したいと思っています。いまco-baは全国にワーキングスペースを展開しているので、もしかするといつか「co-ba高知」を作りたいと言い始めているかもしれない(笑)。そういったいろんな可能性も含めて、高知に還元できる方法を模索していきたいです。
取材のあと
声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。
Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi