雰囲気の時代のまえとあと

望月大作
まえとあと 編集人

僕たちはいま危うい時代にいる。その雰囲気だけですべてを判断してもいいのか、そんなことについて考えてみた。

Profile

望月大作
同志社大学大学院修了。修士論文のテーマは「ガンダム」。さまざまな企業に勤める傍ら、十数年前にソーシャル系大学、「ツブヤ大学」を立ち上げる。直近ではWebメディア「十中八九」の編集長を退任後、Webマガジン「まえとあと」を立ち上げ、編集人となる。所持する資格は車の免許以外に、漢字能力検定2級/歴史能力検定世界史2級/知識検定1級。

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雰囲気で判断してしまう時代

雰囲気の時代。そんなものが存在しているのだろうか。雰囲気の時代は確実に存在している。僕らは過去に比べると圧倒的に考えなくて済むケースが増えてきた。空気で決まることが多くなってきた。空気を読む=それは日本人特有の同調圧力に起因するものなんだけど、その空気がSNSでよりバイアスがかかり、それっぽい空気感を作り出す。

それは雰囲気が本当のような振る舞いをする。その振る舞いこそが厄介なんだと、どれだけのひとが認識しているだろうか。インターネットやSNSさえもない時代でさえ、ひとは雰囲気で流されることを立証してきた。ひとが雰囲気で流されなければ、あんな大きな世界大戦は起きていないし、国内でも無差別テロ事件は起きていないかもしれない。

雰囲気はあくまで雰囲気でしかなくて、それ自体はエビデンスにはなりえない。その雰囲気に自分たちの正義感をミックスすると本当に大変なことになっていく。雰囲気と正義感は混ぜるな危険でしかない。

いたずらな正義感≠明快なエビデンス

いたずらな正義感は明快なエビデンスを持っていないケースがある。それは信じたそれはもうそれとしか捉えることが出来ない、と言った認知バイアスが掛かってしまうからにほかならない。その認知バイアスを誘導するのも、いっけん正解のような雰囲気がもたらす。

ベルリンの壁が崩壊した原因も明快なそれではなく雰囲気的なもので崩壊した。だから必ずしも明示的な原因でものごとが動くわけではないことを示していると思う。

スポーツだと1本のヒットで流れが変わる。みたいな話がある。実際に瞬く間に展開が変わることは多い。選手は全員同じメンバーなのに監督が違うだけで結果がまったく変わる。みたいなことも良く聞く話だとすると、ひとはあまりにも雰囲気に左右される生き物だと言うことも出来ないか。

だとすればSNSの登場は、よりそれに拍車をかけている。SNSは何らかの出来上がっている雰囲気に圧倒的に左右される。伝言ゲームが面白いぐらいに正しく伝わらないように、しっかりと書いてあることさえ正確に伝わらずに拡散されてしまうリスクが、SNSには一定以上存在している。ただ書いてあることをリツイートしただけなのに、もともとの文章の意味さえ忘れ去られたかのような切り取りが、あちこちで発生している。

ずっとふわっとしたもので世界は回っているような気がする。示される結果ではなく、また結果とは違うふわっとした雰囲気。それは見た目とか言動とか、◯◯っぽいだけで、OKだったりする。でもそれって相手の思う壺な気がしてしまう。それっぽい雰囲気だけであればOKなのであれば、すべてはままごとでも成り立つということに等しい。

「人」はひとが支え合って出来ている漢字だと信じている人がいるけれど、これも雰囲気でしかない。「人」って漢字はひとが支えあうって成り立ちで出来た漢字ではない。

正確なエビデンスをちゃんと知っていることは、本当に大事だと今ほど痛感しないことはない。それっぽい雰囲気だけで行動を決めていないだろうか。それが一番いまの時代では危ういことで、知らずしらずのうちに自分も含め、無知を露見することにもつながる。

知らないことを知っていること

さらに言えば、僕たちは無知であることを知っていることが大事だと、本当に感じる。いわゆる「無知の知」。でもこれってギリシャ時代から変わってない普遍的なことだって考えると、本当に普遍的にどんな時代にも「無知の知」を知っていることが重要だと考える。

自分の世界がすべてだと思わないこと。これは非常に重要で、結局自分の世界がすべてになりがちで、それが逆に言えば、自分の知らないこと、知ろうとしないことには雰囲気で何となく決めてしまうことにつながっているように感じる。

ましてや、情報過多な現代において、それは顕著なこととして僕らの目の前に横たわっているんじゃないだろうか。圧倒的に必要がない情報の海のなかでも、間違いなくエビデンスになりうるような情報が散らばっていることも、また事実なので、どうやって正確な情報を、信用足りうる情報を手に入れることが出来るか、そういった能力も試されている。

雰囲気だけで流されてしまえば、ネットワークビジネスのような集団に捕食されてしまう可能性だってある。過去あまりにも性善説で生きてきた自分を恥じるぐらい、社会に出ると狡猾な大人が八百万の神のごとくいることを知った。

そういった人たちほど雰囲気で流されやすい人たちに毒牙をかける。毒はゆっくりと浸透していくので、気づいたころにはもう為す術もない。いま雰囲気で決める代償はあまりにも大きい。そして言えることは一度決まってしまうと、なかなか変えることが出来ない。

あとの祭りとはこのことで、稀に経験がないだけだから任せれば何とかなるみたいな議論があるけれど、それは様々なものに影響がない仕事だったり、デビューしたてのスポーツ選手のルーキーに言える話で、生活レベルでさまざまなことに影響が出るような仕事では、特に現代においては起こってはいけないことだろうと考える。

みんながそれぞれ持っているベクトル

今日はあくまで私見しか書いていない。そしてこれが正しいとも思わない。重要なのはふわっとした雰囲気で決めることは、これから先かなり厄介になるという事実だ。だからふわっとしたもので決めない確かな情報を見つけ出す必要がある。

見つけるためには、それなりに能力も必要かもしれない。それが面倒な人たちが雰囲気の罠に陥る。本当にこれの繰り返しでしかないような気がする。そもそも陰謀論は論外だけど。

自分の考えに基づいているのであれば、最低限ふわっと雰囲気で決めるわけではないので問題ないと思う。もしかすると意見はあなたと合わないかも知れない。でもそれはそれで向いているベクトルが違うのだから仕方ない。

みんなそれぞれのベクトルを持っていて、それぞれの方向に向かってベクトルは伸びている。誰かと交差している場合もあるし、同じ向きを向いている場合もあるし、互いに向き合っている場合もある。けれど、それはそれでしかない。という事実でしかない。

以前はまったく違うベクトルの向きを変えることに執着していた自分もいたが、それが不毛なことに気づいて止めた途端、すごく気分が楽になった。今はどれだけ多様な価値観を受け入れられるかに視点が移っている。もちろん受け入れることが難しい価値観もある。でもそれはベクトルの向きが合っていないだけだ。と割り切る。

これがきっと「四十になる前に惑was」につながっている。

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi