一九九九年七の月(3)

吉月奈美
銀行員
恐怖の大王?
恐怖の大王?

1999年7月。ノストラダムスの大予言の話題が席巻した当時、あの街には恐怖の大王が来ていたのかもしれない。

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吉月奈美
恐怖の大王?

前回の話

三日目

 今日は土曜日だから、私はもちろん休日に決まっている。

 昨日、男が去り行き間際に言った「明日も来るわ」が気になるもんだから、私は十時を見計らって、銀行を見に行くことにしていた。男を気にしだしている自分もどうかとは思うけれど、週明けに来られて、何か言いがかりをつけられたらたまったもんじゃない。そんなことを考えてたら、汗がどんどん出てくるのが分かる。

 それにまだ八時前だっていうのに、クーラーをつけてなきゃやってられない暑さだ。

 朝食は簡単に済ませてしまったし、取りあえず、起きたばっかりなのに嫌な汗をかいてしまった私は、出掛けることもあるので、シャワーをサッと浴びることにしようと思う。

 私が男のことを気になっているのは何故なんだろう。

 何で私は銀行に行こうとしているんだろう。

 そんな自問自答に答えが出ないまま、私はせっせとシャワーを浴び続けた。

 もう、私は電車に乗っている。ガタンゴトンと揺られている。

 一直線に銀行のATMコーナーに入っていくと、案の定、相変わらずの奇抜な格好でそこに男は立っていた。ずっと立ち止まったまんまで、閉まっているシャッターと終わらないにらめっこをしている。

「やっぱり、来てたんだ」

 私の声に気づいた男は、すぐにこっちを振り返る。今ATMコーナーには、私と男しかいない。

「何これ?」

 男は本当に不思議そうな顔をして、私の顔を見てくる。

「何これって、見たら分かるじゃない。今日は銀行の窓口業務はやってないの」

「何で?」

「何でって、そう決まってるからに、決まってるじゃないの」

「今日って、何曜日だっけ?」

「銀行の業務が休みなんだから、土曜日に決まってるでしょ」

「そっか、土曜日は休みなんだ」

 そんな昔から当たり前のことを、いまさら納得されても困るんですけど。

「ついでに言っておくと、日曜日も休みだからね」

「それは困ったな。金を下ろそうと思ってたんだけど」

 私は男の言っている意味が理解できない。

「ATMがあるじゃない」

 男はなぜか、リアルに「え?」という表情を浮かべている。

「驚くところじゃないでしょ!」

 思わず私の声が、ATMコーナーに虚しく響く。心の中で叫んだつもりなのに、口の動きもシンクロしてしまった。

「ここに並んでいる機械って何?」

 目の前の男は、格好も言動も、あるべき何かの一線を簡単に越えちゃっている。としか言いようがない。

 間をつなぐように、「いらっしゃいませ」と無表情な声が入り口のほうから聞こえてくるけど、誰も入ってこない。

「そこにある機械はATMに決まってるじゃない! それ以外の何だっていうのよ!」

「そのATMってのは何だ?」

 私が柔ちゃんだったら、確実に目の前の男に一本背負いを掛けている。

「これで金が下ろせるのか?」

 少し弱々しい声になっている男。

「そのためにある機械に決まってるでしょ!」

 私は逆に強々しい声で話してみせる。

「どうやって、金を下ろすんだ?」

 まぁ、たしかにそういうのを教えるのは、私たち銀行員の役目ではありますが。今日は勤務日じゃないけど特別です。

「カードは持っているの?」

「カード?」

 男はまた「え?」というリアルな顔になる。

「昨日通帳作ったときに一緒に渡したでしょ?」

「あのシカクイ薄っぺらいの?」

 また入り口のほうから「いらっしゃいませ」が響いたけど、誰も入ってこない。

「そうそう、それよ」

 私は手で、カードの形を作ってみせる。

「あれかぁ……」

 男は頭をかいて天井を見つめている。

「もしかして?」

「今、持ってないわ」

 壁にもたれかかって、座り込む男。

「今、全然持ってないの? 昨日はあんなに持っていたのに?」

「持っていない。だから下ろそうとしたら、こんな有様だ」

 また入り口のほうから「いらっしゃいませ」が響くけど、やっぱり誰も入ってこない。それに、「いらっしゃいませ」の間隔が少し短くなっている気もする。

 少し私は考える。すぐに答えは出る。

「仕方ないなぁ。いくら必要なの?」

 私はわざと大げさに言ってみせる。

 座り込んでいた男の顔が、私のほうへ持ち上がる。

「取りあえず、2万ぐらいかな」

 そっか、そんなもんでいいんだ。

「それだけでいいの?」と、そのまま感想が私の口から出る。

 男は一瞬考えたようにも見えたけど、

「月曜からまた銀行やっているんだし。だから、それだけで充分」

「そっか」

 私は財布から二万円を抜き出して、しゃがんでいる男の目の前に持っていく。

「福沢さん、確かに二枚ね。ちゃんと返してよ!」

 私は男に念を押してから二万円を手渡す。

「#&*@:ШЯ☆」

 男が言った言葉が、私の頭の中では変換できない。

「ちょっと! なんて言ったか分かんないでしょ!」

 すると突然、男はポケットからコンパクトサイズの仏日辞典を取り出し開いて、私にそれを黙ったまま押し付けてくる。

 男が開いたページには、〝もちろん〟と書かれてある。

「てか、何で辞書なんて持ち歩いているわけ?」

 相変わらずATMコーナーは私と男の二人だけなわけで。

 男はおもむろに立ち上がる。

「日本語そんなに知らないし、覚えないといけないだろ」

「今日はエイプリルフールじゃないんだけど」

「そうだよ、今日は7月3日だ」

 笑っている男と、真顔な私。

「で、何で……」

「そこから先の話は、いつも俺が行っているところで話そう。何だかさっきから外のほうが騒がしくなってきてるし」

 ハッとした。銀行の外で、いつの間にか長蛇の列が形成されている。

 それはどうも、風変わりな男と、それに話しかけている私とがここにいたお陰で、いわゆる一般ピープルがたは敬遠していたらしかった。ただ、私たちのいる空間が閑散としていたわけではないらしい。

「ほら!」

 男は急に私に近づき、わたしの手を勢いよく引っ張る。

急に手を引っ張られ、きょとんとしている私を尻目に、男は銀行を出て真っすぐに歩き出す。なすがままに引っ張られるlet it beな私。

 何かの映画祭のレッドカーペットの上を歩く女優みたいに、黒山だか何だか分からない人だかりの中を、顔を真っ赤にしながら、私は男に手を引っ張られながら通り過ぎる。

 後ろをチラッと振り返ると、人だかりの中には関口さんが紛れていたような気もした。そして、堰をきったようにATMコーナーにお客様が雪崩れこんでいる。

一方のこちらはというと、全く以って行き先も不明。

ただ、男が向かっている先に視線を向けてみると、その先には駅前の喫茶店が見えている。

「ねぇ、今向かってるのって、あの喫茶店?」

 私の問いかけに男は何も答えてくれない。とにかく、前に前に進んでいくだけの私と男。

 そこのけ、そこのけ、お馬が通る。というわけじゃないけど、嫌でも周りの人たちは、ものの見事な動きで私たちに道を開けてくれる。海が真っ二つに割れていくかのように。

 私は一層恥ずかしさが募るけど、無論、男はそんなことは全く意に介していない。下手をしたら、これは連れて行かれてるんじゃないかと思ってしまう人もいるかも知れない。いや、実際のところそうなんだけど。

 そして、結局行き着いた先は、やっぱりの喫茶店だった。

 私はこの喫茶店をよく知っている。アンティーク調の雰囲気で統一された店内は、とっても落ち着きがあって、私もときどき同僚と一緒に来ることがある。

 店の中には他にカップルらしき男女がいるだけで、比較的静かだ。

 取りあえず私と男はカウンター席に座る。奇妙な格好の男なのに、喫茶店の従業員も別段驚いている様子は見えない。

 そんなことを考えていると、オーダーを聞きにちょっとキャピキャピした店員の女の子が私たちのところにやってくる。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

「この前のもらってもいいですか? 今日は二つで」

「はい。かしこまりました」

「ちょ、ち……」

 私の注文も聞かずに足早に店員は奥へ引っ込んでいく。

「大丈夫、キミの分も頼んでおいたから」

「頼んでおいたからって、言われても……」

「大丈夫、飲めないものが出てくるわけじゃないから」

 飲めないのが出てきたら、困るに決まっているじゃないよ。と心の中で叫ぶ。実際に叫んだら、男の背中からナイフが飛び出てくるかもしれない。気がした。

 カウンターに座ったきり、男はさっきから黙りこくったままで、私も男に何を話していいのか分からないままでいる。

みのさんにファイナルアンサーと聞かれるまでの沈黙ぐらい間があったあと、「ソラ」と男はつぶやいた。

「空?」と私は聞き返す。

「ソラハトッテモアオイ」

「当たり前のことじゃん」

「当たり前のことは案外難しい」

 男は真顔で語っている。そんなあんたは当たり前じゃない。と心の中で呟いたら、その通りと、ソラから児玉清の声が聞こえた気がした。

「お待たせしました~」と、さっき注文をとりに来た女の子がやってくる。女の子がテーブルに二つ置いたのは、見事なまでに普通のカフェラテだった。

「なんだ、普通のカフェラテじゃん」

 普通なことに驚いてしまう私。

「当たり前とか、普通なことが案外難しい」

 カフェラテも見ずに男は語る。ちなみに隣にいる素性も分からない普通でない男と、こんなトコロでお茶している私は普通じゃない。と思う。その通り、とまたソラから声が聞こえた気がする。

「そんなこと言うわりには、あなたはどこからどう見ても普通じゃないよ」

「だろ? 普通は難しいよ」

「それは、あなたの口から言うべきセリフじゃないわね」

 今度は思わず口から言葉がこぼれ出る。

 喫茶店のマスターのコップを拭いている手がさっきから止まったままだ。方が小刻みに震えている。何とか笑うのを堪えているようだ。

「ただ、俺にとっては、この格好は当たり前のものだ」

 男は普通は難しいなんて言っておきながら、どうしても自分の奇抜極まりない格好を正当化したいようだ。個性を尊重する時代だとか言うけれど、男のそれはそんなものをだいぶ逸脱しているように思えてならない。そういう意味では、男は自称恐怖の大王の通りなんだけど。

「だけどね、全く現代のファッション感覚とはてズレしまっていて、お世辞でも言えないわよ。素敵ですなんて」

 男の顔が微かに動揺したようにも思えた。

「もしかして、俺は日本語で言うところの〝浮いている〟状態なのか?」

「は?」

 思わず素のリアクションが出てしまう。

「なぜ驚くんだ?」

「今ごろ、気づいたの?」

「今ごろってなんだ。俺がここに来てまだ三日しか経っていないし、第一ニホンといったら着物じゃないのか?」

「いったい、いつの時代の話をしているわけ? それかメチャクチャ固定概念に囚われてしまっているかのどっちかだけど。それに着物を着ていたら、あとはノープロブレムですってわけにもいかないでしょうよ」

 男は困惑の色を隠せないのか、カフェラテを突然勢いよく飲み始める。

「恐怖の大王だって言ってたのに慌てるんだ」

「慌ててなんていない。少しだけビックリしたんだ。ピサの斜塔が傾いているのに倒れないのと一緒だよ」

「その例え意味分からないんですけど。てか、本当にあの恐怖の大王なわけ? 見た目が奇をてらっているだけじゃないの?」

 何だかさっきから静かすぎるんじゃないかと感じていたら、店内の視線が全て私と男に集まってしまっている。

「俺は三日前に電車に乗ってやってきたんだ」

「いきなり、何の話? それにそんな話はどこにでもありそうで、イマイチ信用できるエピソードでもないんだけど」

「ダメか?」

「だって、電車なんて私でも毎日乗っているし」

「戦車だとかで、現れたらよかったのか?」

「まぁ、そんなので突然現れてくれたほうが、私たち一般ピープルには分かりやすかっただろうねぇ。電車でこんなところに現れてもらっても、ローカルニュースにも取り上げてもらえないよ。ただ、そんな格好しているから、さっきの人だかりからして、町の噂にはなっているんだろうけどさ」

 私は一口カフェラテを飲む。

「別に俺は噂とか有名になりたいだとかは、どうでもいい問題だ」

「そんなに強がらなくてもいいんじゃない?」

「強がってなどはいない。ただ」

「ただ?」

「本当の恐怖というものは、案外身近にあるもんだ」

「今、私の隣にいるのも、恐怖?」

「それは、言わずもがな、自明の事実だ」

「そんな言葉も知っているんだ」

 外はいつの間にか雨が降り出していて、傘を持っていない人たちが、忙しそうに右往左往している姿が見える。

「結局のところ、あなたはどうしてここに、どんな目的で来たの?」

「それは俺にも分からない」

 またまた何を言い出すのだろうか。いったい隣にいるこの男は。

「そんなことはないでしょ! 目的がなきゃ、わざわざこんなところには来ないって。特別何かあるわけでもないし、そんなとっても大きな街でもないし」

「目が覚めたら電車の中だったんだ」

「それって、ただ飲みすぎたからとかじゃないの?」

「俺は滅多に酒なんかは飲まない」

「またまた、冗談言わないでよ」

「俺は滅多に冗談なんかは言わない」

「今まであなたが行ってきた行動や言動は、全部冗談にしか思えないんだけど。とってもリアルすぎる冗談にしか。冗談がきついを地でいってるわよ」

「俺が冗談を言えば、世界は滅んでしまう」

「え?」

「今のは冗談だ」

「脅かさないでよ、冗談でも言っていい冗談と、そうでない冗談があるんだから」

「言っただろ? 案外身近なところに恐怖があるって」

「そんなのちっちゃすぎるって。あなたが与える恐怖って、そんなに些細なものなの?」

「何事も、地道な努力が必要なんだよ」

「何事もって、もっと恐怖って大きく与えるものだと思うんだけど」

「キミは恐怖の真の意味をまだ理解していないな」

「何よ、分かったふりして! それにあんまり知りたくもないんだけど……」

「分かったふりなんかではない。俺は恐怖の大王と呼ばれているんだぞ」

「少なくてもそれをちゃんと知っているのは、私だけだと思うけどね。それに、そんな地道な努力で恐怖を蔓延させようとしても、世界は終わりそうにないわよ。それどころか、日本も終わらないわね」

「どこの誰が、世界を終わらせるって言った?」

「あれ、違うの?」

「俺の仕事はな」

「仕事は?」

「世界を引き締めることだ」

 またしても、よく分からないことを言うもんだ。思わず目をつぶって考え込んだ振りをしてしまう。

「分からないか? 簡単に言うと、当たり前のことを気づかせるってことだ」

「みんな、そんなの気づいてるって。あんたに言われなくても」

「逆だ、案外みんな気づかないものだ」

「わざわざ、あなたが気づかせなくたっていいじゃない」

「俺は、恐怖の大王だ」

 あ~、これじゃあ、元の木阿弥で、完全に埒があかなくなっちゃう。

「ねぇ、今のも含めて全部冗談なんでしょ?」

「それはない。それに分かっているだろうけど、恐怖の大王が言う冗談は笑えない冗談である場合が多い」

「そんな、もっともらしい口調で言わないでよね」

 男はさりげなさを装ったすまし顔で語ってはいるけど、本当に目の前にいる男が恐怖の大王だっていう決定的なことはまだない。見た目が奇抜で、行動が不可思議、言っていることが意味不明。これじゃあ、まるで、ただの変人でしか存在価値がないというもんだ。きっとそんな噂の電波がこの近辺で飛び交っているに違いないし、そいつと一緒に行動している私は、同類と思われていてもしょうがないに違いないし、間違いない。

「俺と付き合ってくれないか?」

 その言葉を聞いた瞬間、私は思わずカフェラテを勢いよく噴出してしまった。慌ててマスターが、私におしぼりを差し出してくれる。

「また冗談を言ったでしょ? それとも何か私にも恐怖を与えようとしてくれてるわけ?」

 冗談めかしながら男の顔を見ると、それは真剣そのものの顔をしていたから、それがまた可笑しくて、プッと笑いを噴出してしまう。

「何がおかしい?」

「そりゃ、おかしいに決まってるじゃない。会って三日しか経っていなくて、しかも全く何者か分からない人に『好きだ』なんて言われたら、とってもおかしな話に決まってるじゃない」

三日目、終わり

執筆:望月大作