2022年最初のコラムのまえとあと

望月大作
まえとあと 編集人

編集人の2022年最初のコラムです。望月が何を考えているのかの一端をご覧ください。

Profile

望月大作
同志社大学大学院修了。修士論文のテーマは「ガンダム」。さまざまな企業に勤める傍ら、十数年前にソーシャル系大学、「ツブヤ大学」を立ち上げる(2021年NPO法人としては終了)。直近ではWebメディア「十中八九」の編集長を退任後、Webマガジン「まえとあと」を立ち上げ、編集人となる。所持する資格は車の免許以外に、漢字能力検定2級/歴史能力検定世界史2級/知識検定1級。

Index

僕が僕であるために必要なキャパシティーとは

ある視点から見ると正しそうに見えることも、別の視点から見るとまったく異なるって話は「まえとあと」のなかではたくさん出てきていると思う。

いろんな価値観があることを知ることは大事だけど、でも価値観があるだけ価値観を享受することは、すなわち享受する側にどれだけキャパシティーがあるのかどうかに依存している。

つまり、キャパシティーがなければないほど多様性は受け入れられるはずもなく、単純な二元論のほうが圧倒的に受容されてしまうことになる。これは当たり前で正しいか正しくないかでジャッジ出来たほうが少ないキャパシティーで済むからだ。

このキャパシティーというものは厄介だと思う。キャパシティーが大きいのか小さいのか、それを左右することは明らかに環境要因が大きいと思う。どれだけ視野を狭めずに生きていけるかどうかに依拠している。

圧倒的に以前よりも身近なところで、自分の興味関心次第では、広い世界を多少なりとも見ることが出来るようになってきたと思う。

まだインターネットがなかったころは、本当に子どものころの世界は限られたコミュニティの中だけだったかもしれない。でもそれはそれで全くないと当時は思っていた。しかし今思うことは、物心ついたころから、どれだけいろんな価値観やいろんな人を見ておけるか、みたいなことはすごく重要なことだと感じている。

人は自分の環境と知識の範囲のなかでしか、基本的には物事を考えることはない。だからそこにキャパシティーが加わると、結果的にキャパシティー次第では狂信化することもありえる。

たとえばある弁護士もテレビで言っていたけれど、いい話があるとか儲けられる話があると吹聴して近づいていくる人たちが、世の中には一定数いるけれど、そもそも儲け話で儲かるなら、人間心理として他の人に伝えることなく、自分たちだけで儲けていると思う。

だから結果的にピュアな人ほど騙されるという構図が、もう何万年も前から続いているんだと思う。この手のスキームはきっと有史以来まったく変わることなく続いているんだろうと思う。

ギリシャの哲学者たちが語ったことや、観阿弥・世阿弥的な話が、今でも未来でも普遍的なことであるのも、人の基本的なスタンスはいくら科学技術が発達したとしても変わらないことを表している。

場数とチリツモの数だけ何かが強くなる感覚

環境要因的なキャパシティーの限界も、いろんな場数をこなすことで増やしていけると考えている。これは圧倒的に経験値によることが大きい。

自分も社会人最初は本当に初めての一人暮らしも含め、いろんなことに怯えていた。ずっと関西で育ったこともあり、東京に慣れることは非常に大変だった。そもそも名刺交換でさえ練習しないと出来ないぐらい「あかん」感じだった。

社会に出る前、謎に自信があったんですよ。初めてバイトを始める前にも謎に自信があった。でもそれは面白いぐらい幻で、面白いぐらい瞬殺で鼻先をへし折られてスタートするわけで。面白いぐらい自分のキャパシティーの小ささを痛感したのは言うまでもなく。

結局そこからちょっとずつ経験を積み重ねていって今があるわけなんですけど。ちょっとやそっとでは動じない精神力は、この小さな積み重ねの結果、会得することが出来た。

かれこれ3年近く週1で筋トレをしていて思うことは、最短距離で状況確認をしている限り、全然成果が見えない。見えないどころか不安しか出ないんですよ。でもかれこれ数年経つと目に見えて変化があるんですよね。不思議なんですけど。あれ、こんなに筋肉ついたのか、みたいな展開になる。

でもなかなか長期的視野に立つことが難しいのは、やっぱりキャパシティなんですよね。目の前に一生懸命であればあるほど、遠くの目標は本当に遠くに遠ざかってしまう。チャンスの前髪のような形で遠ざかっていく。

あとになって分かるんですよね。今とかそのときには気づかない。気づきたくても経験していないから分からない。そもそも分からないことが分からない。

キャパシティーの問題もそうですが、分からないことが分からないってことがとっても分断を生んでいる要因な気がしていて。そこに近づいてくる人がいるんですよね。分かったふりしてやってくる。何も分かってないのに、何なら騙そうとさえしているのに。それが正義と言うなら、思いっきりベクトル違うことをやってやろうみたいな。

そんな境界線にいるような人たちに遭遇することがあったからこそ、今の自分もあるわけで。とはいえ、結局いまここで書いていることも結果論としての考えであって、5年後、10年後にまったく違うことも思っているかもしれない。

でも、きっとまえとあとが続いている限りは、そこまで考え方が変わることはなく、出来ればブラッシュアップしているような形でアップデートされていたらいいなと思う。

僕らしい角度が何度かは分からないけど、何が分からないのか分からない人に対してどんなアプローチが出来るのか、キャパシティー問題をどう解決するのか、僕なりに考えていることは、世の中には思った以上に似ている人もいるけど、思った以上にいろんな生き方があるんだろうな、みたいなことを圧倒的に僕の主観でアプローチしたものが、きっとこのメディアなんだろうということは、ここまで続けてきて理解してきた。

そもそも何くそ根性で瞬発力的な立ち上げ方をしたメディアではあるけど、続けていくことで見えてきたものを、どこまで地道に続けていけるのか、それが今自分自身でも求めているし、自分に課されていることだと思う。

僕には僕にしかできない組み合わせの妙や発信の仕方があることは、何となく心得ているので、そのあたりの機微をほぼ毎週更新される記事から感じ取ってほしい。

来週の記事にも期待してください。

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi