真奈美の口から出たこの一言は、わたしにとって余計な言葉だった。
さっきまでは、確かに持っていたはずの嬉しかった気持ちは、まるで、突然風船が割れたかのように、笑顔と一緒にどこかに吹き飛んでいった。もうわたしの顔にさっきまでの笑顔はない。
まだ何も先の分からないような人が、一応将来的なものが決まっている人から掛けられる同情のような慰めほど、辛いものはない。たとえ言ったその人に悪気はなくても、それは時に人の最も繊細な部分を傷つける武器になってしまうのだ。言葉は実体のない凶器にもなりうる。と、考え方が前までなら割り切ることも出来ずに、思いっきりそう感じていた(一般論としては、まだまだそう考えているけど)。
そう、以前のように思いっきり傷つくことはもうなかった。心配されようがされていまいが、何をどうするのか決めるのは、わたししかいないのだ。そう思うと、いつの間にか心の中の雲が霧散していったように、不快感もどこかに消え去っていた。
そんな葛藤がわたしの心の中であったことなんて、隣でのん気に鼻歌なんて歌っている真奈美は露も知らないだろうけど。
「ここにいると暑くて蒸し焼きになりそうだから、早く食堂行こうよ!」
相変わらず人の気も知らない真奈美の一言で、わたしたちはお昼を食べるために食堂に移動した。
相変わらずの太陽の光が、食堂のテラス席に座っているわたしたちのところに、熱気とともに降り注いでくる。やっぱり外は暑い。
食堂の中は冷房が利いていて涼しかったのだけれど、あいにくのお昼時ということもあって、食堂の中は混雑していたものだから、わたしたちは空いていたテラス席に追いやられてしまったというわけだ。今日の食堂の混雑ぶりは異常なくらいで、もう少しでテラス席にも座れなくなりそうだった。
「真奈美がもう少し早く来てくれたら、中の涼しい席に座れたかもしれないのに!」
そう言って席に着くなり、少し大げさにプクプクとわたしが膨れてみせると、
「ごめんだって。まさか、こんなに人がいるなんて全然考えてなかったんだもん! 恵理もそう思うでしょ?」
真奈美はちょっとだけ申し訳なさそうな顔で、わたしに同意を求めてくる。自分のことまで絡んでくると、真奈美は実感するようなのだ。昔から。
「わたしも真奈美を待ってるとき、そんなこと考えてた」
「うそ?」
「ほんと!」
わたしがそう言うと、みるみる二人とも顔の表情が緩んでいく。そして息もぴったりに二人して笑いあう。
何か気に食わないことがあっても、結局はこんな風に笑いあって、わたしたちはお互いが親友であることを確認しあう。ごめんとも一応言ってくれたし。
たぶんどこかの街頭インタビューで、あなたにとって友情って何ですかって聞かれたら、わたしは答えるのに困ってしまうと思う。友情っていうのは、愛情と同じで、どこか感覚的で、その雰囲気だとか、一緒にいて楽しいだとか、一言では絶対に言い表せない。
とにかくわたしと真奈美の間には、お互いを惹きつけあう何かが存在することは確かなのだ。
「恵理のパスタおいしそう! 少し食べてもいい?」
混雑している食堂の黒山の人だかりの中を何とか潜り抜けて、わたしと真奈美はやっと食事にありつくことができた。その潜り抜けるのに要した時間およそ二〇分。
「昨日の雨はありえなくない? わたし、服なんてもうビショビショになっちゃうし」
「確かに異常だったよね、あの雨の量。異常といえば、今日の暑さとこの人の多さはなんなの? ふつう、暑さと人の量って反比例するもんじゃないの? 大学も新しい学部なんて作らなきゃいいのに。新入生がいきなり四〇〇人も増えたら、かなり雰囲気が変わってしまったし」
「真奈美ったら、また同じこと言ってる!」
「あらっ、さっき話したっけ?」
「今さっき話してたじゃん。ランチ買いに行く前に。しかも、ここで」
「そういえば、そんな気もするかも」
真奈美はペロッと舌を出して、いたずらっぽく笑う。真奈美のマイペースぶりは相変わらず絶好調。
「ここの食堂の厨房の人たち、相変わらずっていうか全然変わってないよね。人が多くても少なくてもペース変わらないんだから、ある意味プロだと思うな。
さっき並んで順番待ってたときに、見るからに新入生っぽい若い子が、そんなこと知らないもんだから、思いっきり怒鳴ってたし。それでも気にしていないあの人たちはホントすごいよね。誰かさんみたいに」
「誰かさんって誰よ! わたしのこと? 厨房の人と一緒にしてくれちゃぁ、困るなぁ」
「だって一緒なんだから仕方ないじゃん」
「恵理がそう思ってるなら、それでもいいけどさ。
話は変わるけど、あの人も健在だったよね! 二番のレジのパートのおばさん。あの人のレジ打ちは、さらに磨きがかかってたよね。一番も三番のレジもどん詰まりで、そこのレジのおばさん嫌な汗かきながらレジ打ちしてたのに、二番のレジだけ何だっていうぐらい早かったよね」
真奈美と席に戻るなり、そんな話を言い合って、そうそう、と相槌を打ちながら、お互いげらげらと笑いあう。そうやってわたしと真奈美は、二月以来会っていなかった時間の埋め合わせと、混雑による不愉快さを吹き飛ばそうとしていた。
わたしは、今の時期の食堂のイチオシらしいフレッシュマンゴージュースに、辛いものには目がないわたし好みのピリ辛なペペロンチーノのパスタを食べ、真奈美は、必ず一緒にどこ食べに行っても頼むミックスジュースに、ミックスピザという組み合わせのランチだ(たまたまミックスが被っただけで、別に真奈美が何でもかんでもミックス好きというわけではないんだけど)。
真奈美にわたしのパスタを少し分ける代わりに、さっきからわたしの目においしそうに映っていた、チーズの香りがつーんと香ばしいミックスピザを少しいただくことにする。食べた瞬間、思わずわたしの頬も緩む。
「ピザもおいしいねえ」
「そうでしょ? だって食堂で食べるときは、二回に一回はここのピザを食べるんだから」
真奈美は、丸いテーブルに向かい合って座っているわたしのほうに少し身を乗り出すような感じで、片手にそのピザを持ちながら、食堂のピザがおいしいのはわたしが発見したんだからって言わんばかりの得意げな顔で、それを力説する。
「そうなの? だからかぁ」
「だからって?」
「高校のときと比べて、だいぶ太ったんじゃない?」
真奈美の下腹部の辺りを指差しながら、ここでさっきの仕返しをしようと、わたしはニヤニヤしながらわざと冷やかす。
「もう、恵理ったら何言ってるんよ! 違いますぅ。太ったように見えるのは、就職が決まって安心したからなの。安心太りっていうやつよ」
「なにそれ? そんな言葉初めて聞いたんだけど」
「わたしが今作ったんだから」
ムキになって口を尖らせながら真奈美がそう言うと、また二人して笑う。こんなバカ話を真奈美とは何十回、いや何百回、何千回としてきた。そりゃあ、時にはすっごく真面目な話をしたこともあったけど、真奈美とする話のほとんどはこんなバカ話。これが来年の今ごろはとかなんて考えると、こんなバカ話一つするのにも感慨深いものがある。真奈美は来年から社会人になるんだ。
そういえば、真奈美は働くことについてどう思っているのだろう。わたしは真奈美に、相変わらずニヤつきながら、少し茶化し気味に尋ねた。
「安心太りな真奈美さんにとって、働くことって何なのですか?」
「そんなの決まってるじゃん。お金を稼いでぇ、素敵なだんなさんを見つけること」
真奈美は、ミックスジュースをストローで飲みながら、安心太りっていうフレーズに、一瞬チラッとわたしのほうをにらんだものの、顔を少し見上げると、まるで白馬の王子様でも待ちわびるかのような口ぶりだった。
まあ、こんなもんか。真奈美の王子様、求ム発言を聞いたわたしの感想はそんなところだった。夢見がちというか、楽観的なところが、真奈美らしいといえば、真奈美らしい答えだったから。
再びすぐに、パスタを食べているわたしの手が止まる。
そうだ、もう一つ。
まだ、そういえば真奈美がどんな会社に就職を決めたのか聞いてなかったことを思い出した。
「肝心なこと聞いてなかったけど、真奈美どこ決まったの?」
「就職先のこと? えっとねえ、M銀行の一般職」
M銀行といえば大手メガバンクだし、一般的な認知度としてもそこそこのものだ。かといって真奈美に出世とかそんな野望があるとは思えないし、出来る銀行員を見つけて、真奈美でいうところの素敵なだんなさんとの結婚が目的なのか? たしかに銀行員っていったら、いくら不況な世の中でも、お金を持っているイメージがわたしの中にも存在している。
「何で、そこにしようと思ったの? 金融業界に興味があったの?」
ミックスピザを口に放り込もうとしていた真奈美の手が止まって、それをお皿に戻すと、少し考えた様子で真奈美はううんと首を横に振った。
「別にどの業界に行きたいだとか、そこまで考えてなかったし。何となくかなあ」
「そんな簡単に決めてよかったの?」
再びミックスピザに手を伸ばしていた真奈美の手が止まる。少しだけ神妙な顔になったような気がした。
「だってさあ、もうこの時期、ほとんどの人決まってるでしょ? だから、何かもう就活止めたくなっちゃって。どうせ結婚もあるしね。そんなときに一般職の内定出たからさ。ほら、銀行員っていったらお金持ちでしょ!」
真奈美はそう言ってにっこり笑うと、止まっていた手が動き出して、ミックスピザを口の中においしそうに放り込んだ。
やっぱり真奈美は真奈美。考え方から行動まで、中学校で初めて出会ったころから何にも変わっていない。就職が決まろうが、何しようが全く変わらない。真奈美は単純なんだけど、結構行動力もあって、自分の意見もどんどん通していくんだけど、人の話を聞いてなかったり、どこか考え方が夢見がちだったりする。
でも、そんな真奈美だったからこそ、わたしは親友になれた。わたしはそう思う。
だって、真奈美の持っているもののほとんどが、わたしの持っていないものだったから。知り合ったころから真奈美の全てが羨ましかった。
そしてまた、目の前にいるミックスピザを嬉しそうに頬張る同い年の彼女は、M銀行への就職というわたしに無いものを手に入れた。
きっと、わたしの真奈美に対する無いものねだりは、この先もずっと続いていくんだと思う。真奈美が素敵なだんなさんを見つけて結婚するときにも思うんだろうし、かわいい男の子や女の子が生まれたときも思うに違いない。
きっとそれが、わたしのモチベーションとなっていくのだ。そんな気にさせてくれる相手のことをライバルと呼ぶのかもしれないけど、いい意味でずっと真奈美はライバルだった。
そんなことを、嬉しそうにミックスピザを食べている真奈美を見ながらぼーっと考えていると、わたしの奥底に眠っている何かが目を覚ました気がした。空から声が聞こえた気がした。
ふいに、顔を見上げてみる。太陽はまだまだ眩しい。
目の前の、この間まであんなに桃色のキャンバスを描いていた桜の木も、至るところに葉っぱが落ちていて、昨日の大雨の影響に痛々しさを覚えるものの、生き残った葉っぱたちが、今はもう青々とした新緑の姿を力強く見せてくれているのが頼もしく見えた。
わたしが大学に入学した頃は、わたしたちもこんなに力強い感じで青々としてたのかなぁとちょっぴり思い出す。
ねえ、そういえば、と真奈美は、新緑の桜の木を眺めていたわたしに話しかけてくる。
「ん、どうしたの?」
「さっき、ベンチの前で待ち合わせしたときの意味ありげな笑みはなんだったの?」
わたしもそんなことがあったと真奈美に言われて思い出した。ホントは言いたくて仕方ないんだけど、今はまだもったいない感じがして話したくなかった。
「何でもないよ。別にいいじゃない」
そっか、とだけ言って、真奈美は残っていたミックスジュースを、ストローでグイグイ飲みだす。その飲んでいるときの表情は、少し視線も泳ぎ気味で、何かを考えているようにも見えた。ズズーっと音を立てて、それを飲み干してしまうと、頬杖なんかついたりして、やっぱり真奈美は何か考えている。
そんな状態が五分くらい続いたあと、さっきまでとは一転して、見たことのないようなすっごく真剣な表情になったと思うと、真奈美の目は、真っすぐわたしを捉えていた。
「ど、どうしたの? 急に改まった顔しちゃって」
その真奈美のさっきまでとは対照的なあまりにも真剣な表情に、わたしは少したじろいでしまう。
「実はね、今日恵理に会うって決めてから、ずっと言おうって思ってたことがあるの」
そう言って、真奈美は言いたかったということをわたしに語り始めた。
「わたしね、恵理のことがずっと羨ましかったんだ」

