東日本大震災のまえとあと

三代目 桂枝太郎
落語家

落語がいま未曾有の危機にある。その中でどんなことを考えているのか。そこを率直に語ってもらった。さらにタイトルになっている東日本大震災で変わった心境、師匠である桂歌丸が亡くなったあと、いま感じていることについて聞いた。
(2022年1月アップデート)

Profile

三代目 桂枝太郎
岩手県奥州市衣川出身。1996年、桂歌丸に入門し前座、桂歌市。2000年二ツ目昇進で桂花丸。
2009年真打で、三代目桂枝太郎襲名。岩手県初の真打ち落語家。
古典・新作両輪で活動。新宿末廣亭、浅草演芸ホールの主任をつとめる。
落語以外にもメディア、コラム、小説等で幅広く活動。
公式サイト

Index

コロナ禍のまえとあと(2020年取材)

まえとあとで、真っ先に思い浮かぶことは?

太郎

コロナ禍前と後ですよね。コロナ前だと例えば「チケットの取れない、要は何百人集める何千人集める」ことが、もちろん色々な考えのある中で、落語家のある種のステータスになっていたんですが、今度の騒ぎで、今度は「人を集めるな」って状態なんですよね。

2月ごろからダイヤモンド・プリンセス号が話題になりましたけど、あの時はまだ落語界は「何か大変だな」ぐらいだったんですよね。ネタにしてる師匠もいましたから、「船だけにコウカイしてる」とか(笑)。下旬から徐々に落語会のキャンセルが出始めまして。寄席の楽屋でも「あれ?これ、ちょっとおかしいな?」って感じに皆さんなってきて。これが3月になるとどんどん中止になり、それこそ本当に「シャレにならないな!おい」って。そんな状況になってきたんですよ。

落語ブームで良い流れになってきて、寄席もいい感じでした。2月から、ちょうど講談師の神田伯山さんが真打披露興行で盛り上がっていて。若いお客さんがどんどん増えてきて「これから演芸界は良くなる、寄席は盛り上がる」と思っていた時にこの騒ぎで。3月下旬から寄席に来るお客さんも減ってきました。

それまで本当に昼席なんて特にいっぱい入っていたのがガラガラになり…

自分が落語家になったのが、平成8年ですけど。そのころは落語が冬の時代って呼ばれていて。あまり寄席にお客さんが入らなかったんです。お客さんが一人もいなくて、入るまで開演時間を遅らせた日もありました。若者には「落語がダサい、古い」って思われてて。

なんかその時の風景に戻っちゃったんですね。師匠方が楽屋で「昔の演芸場に戻ったみたいだ」って。4月11日から新宿末廣亭のトリだったんです。正直、すごく不安だったんです。このままやって感染者がお客さんや芸人から出たらどうしようって。一人でも出てしまったら嫌だなって。寄席は誰も傷つかない場所でいてほしいので。芸人がスベって傷つくのは勝手ですけど(笑)。

ついには4月になって緊急事態宣言が出て。寄席って戦時中でもやっていたんですよ。だから寄席が休みなのはありえないんです。歌丸の師匠の桂米丸師匠(95歳)※1が、こんなの初めてだって。95歳が初めてなんて相当なレベルですよね。戦時中さえやっていた演芸場、寄席が休みなんです。ここで改めて重大さに気づきました。

それで芸人が全員、皆さん暇になりまして。正直、最初はホッとして「いい骨休みだ」と思っていたんです。ネタも整理できるし、お礼状とか書いたり。でも日が経つにつれてだんだん焦ってくるんですよね。もちろん現時点でも分からないですが、ある説では最低2年は元に戻らないって報道もあるんで、この先どうなるのかは今もすごく不安です。落語の稽古もすることはするんですけど、お客さんの前でしゃべらないと不安で仕方ないです。

枝太郎

この前、北海道で落語会があったんです。お客さん同士の距離が8mぐらい離れているような、本当にSocial Distance をものすごく守った落語会、10人ぐらいしか入らない会で。でもこれが自分の40日ぶりの落語で、もうなんか感動しちゃって。普段の自分だけの稽古ではジャージでやっているので40日ぶりに着物を着たら、着方が分からなくなって反対に着ちゃったんですよ。死装束の着方になっちゃって(笑)。「あっ、これじゃない」って急いで着なおして。

出囃子が鳴り、座布団に向かって、歩いていく瞬間に、何とも言えない気持ちになりましたね。緊張もそう、感動もそう、懐かしさもあって。家での稽古だと当たり前ですが、笑いがないんです。妻も冷たいし(笑)。落語をしゃべって、笑いがドンっとあった時に「ああ、帰ってきた!」と思ったんです。

今まで当たり前のようにやっていたことが、どれだけ尊いかって。もう泣きそうになりました。

毎日、何気なくやっていて、それこそ忙しい日は1日に3〜4回もやっていたことが、これだけ尊いことをやっていたんだって。今までの日々にものすごく感謝しました。よくこの約20年間、こんなに不安定な仕事をやってきたなと思いました。

1年前から押さえられていたスケジュールが「(コロナで)中止になりました」って電話一本でキャンセルになるんです。補償金も何もない。

私に限らず、落語家、全員そうなんですが、弟子入りの時に師匠から「この世界は食えないぞ」と言われて覚悟して入門しているんです。そんな忘れていた事が改めて思い出されました。あぁ、こんな不安定な世界で仕事をしていたんだなぁと。

コロナ禍の前までは当たり前のようにやっていた日常のことだけど、どれだけ自分は綱渡りな仕事を今までしてきたのか、これだけ浮世家業をやっていたのかと。今までの日々に感謝ですね。

※1 神奈川県横浜市出身の落語家。落語芸術協会最高顧問<参考>

コロナのまえとあと / 竹中功

落語は催眠術

落語って画面を1つ挟んだだけで、感じ方が変わるじゃないですか?

枝太郎

臨場感がやっぱり違います。正直な話、テレビで見る落語も面白さが伝わりづらい。それよりもっと無機質な、無観客で配信する落語だとどうなんだろうなって。

なぜそうなるのか、いまいち分からないんですよね。

枝太郎

立川談志師匠もおっしゃっていたんですが、落語は催眠術なんです。落語に一番良いのは、狭い空間にお客様を押し込めて催眠術をかけるんです。それによって花魁や町人や殿様が催眠術で浮かぶわけです。落語にとって一番のアウェイが、野外だと通じないんですよ。広々とした空間だと絵が浮かばないんです。途中で救急車が通ったりすると瞬間、集中が切れます。携帯電話が鳴っても集中力が切れるんですよね。いきなり現実に引き戻されちゃう。お客さんの想像力に頼る、とても弱い芸能なんです。

落語にとって一番良い環境が、密になる場所なのでコロナには最悪な環境なんです。狭い空間に多人数を押し込める、これが落語の一番力を出せる空間なんですけど、コロナにとっては劣悪な環境なんです。そう考えるとこの先どうやってコロナと戦っていくのか。

たぶん落語が発祥した江戸時代からの一番のピンチだと思います。戦時中は禁演落語と言って、花魁の噺はやってはいけないというお達しがあったんですが、それ以上です。人を集めるのがダメなんですから。これはもう落語の歴史が始まって以来の最大のピンチだと思います。

いま現在の生きている落語家がどうやってこれを乗り越えて戦っていくのかが使命だと思います。冗談でもなくこのままでは落語が滅びます。

今までSNSやYoutubeをやらない師匠が次々とやり始めてるんで。今までやってこなかった方々がやり始めたってことは、それだけ危機ですよね。自粛中の5月に志の輔師匠から急に電話がありまして。「落語家人生、こんな事は初めてだ」って。何とか全員で乗り越えていかないとですね。

私は落語会や寄席の良さはチームワークだと思うんで。それこそ上手い人がいて下手な人がいて、面白い人がいてつまらない人、派手な人、地味な人、年配、若手、そういうのをひっくるめたチームワークが寄席の良さ、落語会の良さじゃないかと。今のように配信を個々でやるんじゃなくて、皆で配信寄席みたいな感じで出来ないかなとすごく考えてますね。落語界がYouTuberみたいになったら寂しいなと思います。上手い人、売れてる人、派手な人だけが稼げる世界って落語じゃないなって。

東日本大震災のまえとあと

枝太郎

私は東日本大震災の「まえとあと」でも全然違いました。東日本大震災の前は、わりと自分の好きな落語だけやってりゃいいやって考えだったんです。東日本大震災が起きてしまい、自分は岩手県出身なので、山田町の友人が心配で行ったんです。ガレキ撤去や炊き出しのために行こうとしたら、現地に私を落語家だって知っている方がいて「落語をやってください」と、避難所になった大槌町の体育館で落語をやりました。

「つる」という落語をやりました。避難所の体育館はもう皆さん雑魚寝の状態だったんですけど、一番前の子どもがケラケラ笑ってくれて、これが嬉しくて。落語の力のスゴさを感じました。落語はお年寄りから子どもまで、同じように笑わせられて、一人で何時間でも出来るんですよ。帰り際に「久しぶりに笑いました」って、その子どもが言ってくれて。だからあのとき初めて私は落語を選んでよかったなと思いました。

それは東日本大震災が起きてどれぐらいの時だったんですか?

枝太郎

それは起きてすぐ、2週間ぐらいのころでしたね。高速バスが通じるようになってからですから。その後、事務所宛にメールが来たんです。「あの時はありがとうございました。絶対に復興させますのでまた来てください」と、その子からメールが来て。嬉しかったですね。

ちょうど岩手に行く前に、師匠の歌丸から「ちょっとメッセージを届けてくれないか」と言われて、師匠のコメントをテープに吹き込んだんですよ。避難所の体育館で自分の落語が終わった後に流しました。

「桂歌丸です。皆さん負けないでください。力になれる事があれば言ってください。復興したら必ず行きますので」

みんな泣いちゃって、終わったあと拍手が起きて。

震災前はただ好きなことだけやれればいいと思っていたんです。でもその光景を見た時に、売れているということは、こんなにも力を与えられるんだなって。ただ「歌丸です。頑張ってください」そのテープの言葉だけでみんな涙を流すんですよ。力になれるんです。だからあの時ですね。売れなきゃなと思ったのは。その時から自分の落語に対するスタンスは変わりました。

震災前は正直、面倒くさい仕事は断っていたんですよ。「そんなに生活に困っているわけじゃないんで」と思っていたんですけど(笑)。やっぱりどんなお仕事でも、取材も含めて、いただいたものには心から感謝してどんな事でもやっていきたいって思いました。

色々なモノに顔を出せば、例えば震災の慰問で伺った被災地の避難所にいた方々や仮設住宅にいた方々が「枝太郎さんってここに昔、来たんだよ」って喜んでくれる。人が喜んでくれるってことはそれだけ尊いことなんだと実感しました。

私は震災の前は、ネタがわりとマニアックだったんですよね。ごくごく自分のやりたいエログロナンセンスな狭いネタで「笑わない人は別にいいや」みたいな感じで。震災後はあんまりブラックユーモア、グロいネタをしても嫌だなと思って。コロナもそうですが、今、現実がこれだけ悲惨なので、やっぱり子どもからお年寄りまで、笑えてハッピーエンドになるような、お客さんが明日の活力になるような落語をしようと思っています。

陸前高田で起きた実話を元につくった「ユギヤナギ」って新作落語があるんですが、本当は震災から10年経ったらやめようと思っていたんです。でも今の現状だと復興まで時間がかかるので、被災地を風化させないためにも語り継いでいかないと。古典落語にしていかないとなぁって。

師匠・歌丸亡きあと

歌丸師匠の亡くなったあとは変わりましたか?

枝太郎

かなり変わりましたね。考えると相当あります。うちの師匠が生きているときは、正直、1度離れたいなっていう時期があったんです。真打ちになってから。要は反抗期ですよね。どこへ行っても「歌丸さんの弟子」と言われる。芸能人の2世に近い感情でしょうか。前座、二つ目の時は別に当たり前なんですが、真打ちになっても「桂枝太郎」よりも「歌丸さんの弟子」として認識される。ヘタをすると名前も覚えてもらえず「歌丸さんのお弟子さん」と(笑)

正直「いやいやオレ、頑張ってるし!」という気持ちでした。自分で落語会もやっているし、寄席のトリもとって、番組のレギュラーもあった。でもどこへ行っても「歌丸さんの弟子」と言われる。ロケに行ってもディレクターさんが「この人は歌丸さんの弟子で」とロケ先に紹介するんですよ。そのときに何か心に、もやもやとしたささくれがあったんですね。

師匠が亡くなる前は、あえて師匠がやらない落語をやっていたんです。師匠のネタをやると「やっぱり歌丸さんの方がいいね」と比べられる。それは当たり前ですよね。だから師匠の得意な「竹の水仙」とか「ねずみ」「おすわどん」はやらなかったんです。師匠が「紺屋高尾」なら自分は「幾代餅」をやろう。師匠が新作落語から古典落語に転向したのなら、自分は新作落語をガンガンやろうと。

それがどこへ行ってもついてくる「歌丸さんの弟子」というレッテルへの反抗でした。青臭いですね。

逆に亡くなってからは、師匠のネタを中心に覚え始めました。しばらく古典落語は師匠のネタを中心に取り組んでいこうかと。

やっぱり歌丸の落語を継承していかないといけない。もちろん芸もウデも違うので完全に継承は出来ないですけど、その魂とか志とかを何十分の一でも受け継ぐ事が出来ればと。だから50歳までは師匠がやっているネタを中心にやっていこうとかなぁと思います。

ゆくゆくは師匠がライフワークとしていた三遊亭圓朝師匠作の怪談噺があるんですが、それにも挑戦してみたい。年数がだんだん経ってくると、歌丸を知らない世代が増えてくるので残していかなきゃいけない。

歌丸師匠を知っている人が何も言わなかったら、無くなってしまいますもんね。

枝太郎

人間は2度死ぬそうです。1度目は肉体の死、2度目は記憶からの死だと。例えば今の若い人は立川談志師匠を知らない人もいると思うんです。でも志らく師匠や談春師匠、志の輔師匠の師匠として立川談志師匠を知ると思うんです。春風亭柳昇師匠を知らなくても、昇太師匠の師匠だって。こん平師匠を知らない若い世代でも、たい平師匠の師匠だって。

「弟子は師匠の名前を残すことが出来る」鶴瓶師匠や志らく師匠が、自分の師匠のネタを話すのは残したいからじゃないかと思います。私も昔は、あえて歌丸のネタやエピソードを言わない時期もあったんですが、今ではしつこいくらいに話してます。

自分を含めて弟子達が活躍して、桂歌丸を令和に残していかなくてはいけない。そういう考えがすごく芽生えました。亡くなる前はあえて師匠のまわりに近づかない時期もあったんですが、今では毎月、必ず墓参りに行ってます。「歌丸の弟子」と言われることも、今のほうが嬉しいですね。師匠が亡くなる前は、メディアに出させていただくと「歌丸最後の弟子」と必ず付いていたんですけど、今は付いていた方が嬉しいです。師匠と一緒にテレビに出ている感じがしてすごく心強いです。

師匠の持ちネタが書いてあるネタ帳をもらったんです。師匠は高座に上がる時に、それを手ぬぐいで挟んで懐に入れてたんです。だからすごく大事な舞台の時は、同じようにしていますね。

今のほうが、師匠を身近に感じる瞬間が多くなりました。それこそ歌丸一門は5人だけで孫弟子がいないんですよ。そういう意味でも歌丸の直系の血統は残さないといけない。今は自分もまだまだ若輩ですが、いつかは弟子を取ったり、歌丸の系統を残し、2代目桂歌丸を作らないといけない。それは兄弟子になるのか、自分達の弟子の歌丸の孫弟子世代からなのかは、まだ分からないですけど。そういう意味でもやらなきゃいけない事はたくさんあるなと思います。

今年の初めに、笑点で初めて落語をやらせていただきました。何か妙な気持ちになりました。うちの師匠が一緒に舞台上にいるような感覚で。誰も信じてくれないですけど、落語やっている時に師匠が側に居たんですよ。すぐ隣に。ずっと怒ってましたけど(笑)。

取材のあと

音声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。

[New]まえとあとのあと(2022年1月取材)

落語がなくなったときに二本の足で立っていられるかどうか

枝太郎

今は西洋占星術でいうと「風の時代」というものらしいです。私は今まで落語だけの25年間だったんですよね。「落語で認められないと自分がない、アイデンティティー/存在理由がない、落語があるから自分が生きている、落語が上手くいってるからこそ家庭やプライベートがある」みたいな気持ちがあったんです。ところが、コロナ禍において落語というものは物凄く不安定なものだと感じました。寄席や演芸場もどうなるか分からない。落語の協会も不滅ではない。コロナで本当に2ヶ月間ほど寄席が休みだったんです。「明日から休み!はい!解散!」みたいな。

芸人、関係者、皆、全くどうなるか分からない状況で、特に前座さんは大変だったと思います。落語界は永遠じゃないんだってそこで気づきました。今までは、落語家はアルバイトは禁止って、暗黙の了解があったんですよ。伝統芸能の変なプライドなんですかね。しきたりと言いますか。

でももう、そんな時代でもない。コロナ禍で自分の同期も、何人か副業しながら落語家をやっている方もいます。家族を養うため、生活していく為なら、しきたりとか粋とか言ってられないですから。もう、そんなに落語だけに拘る時代ではないかなって。

逆に、落語家のキャリアがある中で、その柔軟な思考ができること自体がいいんじゃないですか。

枝太郎

そうですね。皮肉にも、コロナで「落語」は永遠、永久、絶対じゃないって気付いたんですよね。林家木久扇師匠の言葉ですが「大事なのは「落語」というものが無くなったときに、二本の足で立っていられるかどうかだ」って。落語なんていつ無くなるか分からないんだから、それでも食っていける術や心構えを身につけなさいって。

だから木久扇一門のお弟子さんは、緊急事態宣言が出た時はマスクを作ってる方もいたり、Uber eatsをやったり、逞しいんですよね。それぐらい柔軟な考えや生き方ができると人生って楽じゃないですかね。どうしても「本業で結果出さなきゃ!食っていかなきゃ!」って、力が入ると、結果が思うように出ない時、行き詰まったりする時、悩んで自殺まで考えてしまう。そもそも仕事のジャンルがずっと続く保証なんてないので。どの職業、会社でもそうですが。

絶対そうですよね。

枝太郎

落語界は伝統芸能、職人の世界なので「一生、その仕事に尽くす。副業はだめ」という暗黙のルールがあったんですが、最近の個人的な考えとして「一生涯、落語家をやらなきゃいけない」って考えじゃなくてもいいんじゃないかなって。

個人的には両方メインであって、落語家もできる◯◯だったら、めちゃ強いと思います。

枝太郎

友人である、キングコングの西野亮廣さんがよく言うのは「仕事は掛け算」だって。例えば西野さん本人で例えると、漫才師はたくさんいるけど、絵本も描いてる「漫才師×絵本作家」だといない。だからそこで希少価値を求めた方が個の価値は上がる。自分は今までは、落語以外のことをやったら恥だと思っていたんです。でもそんな時代でもない。もちろん落語は落語で必死でやりますし、お客様や落語や落語界に真剣に恩返しはさせていただくつもりですが。今後は、一つの生き方に拘らずに、掛け算をやってみようかなって。

何を掛けるか、落語以外の何かはまだ模索中なんですよ。インパルスの堤下さんにYouTubeを教わりまして。自分がYouTubeで何をやりたいかっていうのは明確じゃないので、何となくぼんやりしてるんですけど、色々とジタバタして生きてみようかなって、今さらですけど。44歳になって、今まで精神的な柱だった、師匠が亡くなったのもありますし、それまでうちの師匠の比護のもとで落語をやってきました。師匠の目もあるから、あまり突飛な行動は控えていたんですが、そういうのもなくなったんで、改めて自分が所属している事務所のマセキ芸能社とも話し合ったんです。

今までは落語家なので気を遣ってくださり、落語の仕事しか振ってくれなかったんですけど、先日、事務所の担当の方に「何でも挑戦したいです」と言ったら、了解してくれて「実験的に色々と(仕事を)回しますね」って。「NGないですか?」と言われて「ないです」と答えて。

もしかしたら事務所の先輩の「第2の出川哲朗」として、ザリガニの桶に飛び込むかもしれない(笑)。でもそれはそれで面白いなと思って。ワニに噛まれながら「人間国宝になりたい!」って叫んだり(笑)。

最終的に落語を捨てなきゃいいし、落語は年をとっても健康だったら生涯、出来る。だからあまり落語だけに拘る必要はないかなと。「桂枝太郎」は明治から続いている大名跡で、私が三代目なんですが、どうしても死を考えるくらいに精神的にしんどくなったら有望な一門の若手に継がせて、自分はのんびりと落語をやって好き勝手に生きていこうかと。柔軟な考えを持つようになりました。

この先、何があるかわからないですからね。

枝太郎

本当にそうですよね。実家は岩手県の農家ですが、農業をやりながら落語も面白いかなぁと。どっちもエンゲイだし(笑)。最終的に自分が納得して生きていければいいわけです。農家をやりながら落語をやっても、それが最終的に落語にフィードバックすればいい。「落語家×農家」って他にいないですし。

何かしらフィードバックは絶対あるはずなので話芸には。

枝太郎

自分の周りが二足の草鞋を履くタイプばかりで、奥さんはアナウンサーやりながら、VRのPRマーケティングや営業をやってます。「アナウンサー×VR」ですよね。色々と周りの人間が複数の仕事しているタイプが多いので、私も遅咲きながら探してみようかと。

何もしないよりは全然良いと思います。引き出し多いほうがいいので。

枝太郎

必ずしも都心に住む必要もないですしね。後輩の講談師の神田京子さんが山口県に移住したんです。旦那さんの仕事や子育ての為でもあるんですが。正直、楽屋内では「都落ち」みたいな扱いだった。やっぱり寄席のある都心に住んでいないとみたいな。でも、山口県の詩人「金子みすゞ」を講談にして、文化庁芸術祭の賞を受賞した。山口県に住まないと金子みすゞの講談も出来ないし、文化庁の賞もとれなかった。人間万事塞翁が馬。だから別に地方でも芸能は出来るんです。この先、自分も岩手県に帰るかもしれないし。

笑点を卒業した=師匠 桂歌丸からの旅立ち

枝太郎

昨年末で笑点を卒業したんですよ。2004年から笑点のアシスタントをやっていて、先代の円楽師匠が司会のときから前説をやったり、小道具を運んだりしていたんですよね。

本当は笑点のアシスタントは真打になってやる仕事ではないんですよ。本来は真打になった時や師匠が勇退する時、師匠が亡くなった時に後輩に譲らないといけなかったんです。正直、2年ぐらい前から引き際を考えないとなって思ってたんですよ。そうしたらコロナが来てしまって。

他の人からすれば大したことないかもしれないんですけど、自分の中で笑点は17年もやったんですよね。17年は私の芸歴の3分の2ですから、笑点はすごく自分の中でも大切な核になっているものだったので、それを辞めることで自分がどう変わるのかも面白いと思っています。

自分の去年から今年の「前と後」は一番は笑点ですね。林家三平師匠が卒業する時、自分も一緒に卒業させてもらったんです。アシスタントで17年、ズルズルと来てしまった。師匠方、スタッフ、皆、優しい人達、楽しい職場だったので、居心地の良さもあるし、芸の上でも得るものもあった。「もしかしたらいつかはメンバーに」みたいな下心もあったかもしれません。うちの師匠の大事な場所だったし、自分の中でも思い入れもあった。でもメンバーに後輩が入って来たから、多分もう、そこの可能性はないなと。人間には各々で役割があるから。自分はキャラを付けて大喜利をしているより、面白い落語やネタを創作していく人生だなと。己の作品を古典として後世に残していく事が自分の役目かなと。笑点の歌丸にはなれなかったけど、落語家の歌丸を目指そうと。面白い落語家になりたいという夢だけは入門した18歳の頃からぶれてないので。

そもそも令和の時代において、テレビが絶対でもないですし。ネットの方が手軽さや自由度もあり、自分に合ってるかもしれない。寄席芸人の強みは、落語で食えるのでテレビの言いなりにならなくてすむところです。テレビが主戦場のタレントさんと違い、そこは強いとは思うんですけど。

亡くなられた三遊亭円丈師匠がよく「椅子取りゲームに参加するくらいなら、新作派だったら自分の座る椅子は自分で作れ」と言ってまして。

でもそこで笑点を辞めた穴をそのまま空けているだけではなくて、何か入れようという姿勢が大事なんだと思います。

枝太郎

正直、笑点があることによって、固定給も少しはあったわけですよ(笑)。微々たるものですが。事務所とも話し合いました。今までは事務所と距離をとった関係だったんですけど、自分の心の内をきちんと告白したら、事務所の方も色々と言ってくれるようになって。自分はいま44歳なんで、残りの人生を考えて、今までやってない事をやろうって。

何か失わないと何かを得ない。人生そういうものですよね。何か終わったら何かが始まるものだと思います。

でも柔軟なのは、これからの時代、大切なことだと思います。

枝太郎

私の実家は岩手県の小さな村なんですが、田舎の人って卑下するんですよね。「うちはなんにもないですから」とか「いや、うちなんて田舎ですから」と自己否定する。それは特有の謙虚さや美学でもあると思うんですが、あんまり良くないと思って。そこで育った子供が「自分は田舎だから」と卑下した自己肯定感の低い人間に育ってしまう。だから自分が頑張って「田舎生まれでも出来るんだ!」って、夢を与えなきゃいけないと歯を食いしばってきたんですが、同じ故郷で、大谷翔平選手が出てきたので、その役目はいいかなと(笑)。メジャーリーガーと落語家を比べるのもナンセンスすぎますが、少し肩の荷が楽になったのも本音です。勝手に何か背負っちゃってた。地元の方に、夢を与えるのは大谷さんに任せようと。

でも歳を経ることはあまり関係なくて、どこかのタイミングで気づくみたいなことがあることがあるわけじゃないですか。その気づきが大事な気がするし、今回のコロナ禍はちょうどいいきっかけだったところがあると思います。50〜60歳となったときに、これが契機だったと言える感じになっているのがいいですよね。

枝太郎

コロナ禍は良くも悪くも生き方を見つめ直す、きっかけになりました。今までは同期や後輩が力をつけて活躍していると「ヤバイ!ヤバイ!」って不安ばかりで。でも肩肘張らずに受けとめると、素直に認める事が出来る。認めた上で、自分は自分で頑張ろうって。そう考えると変に嫉妬したり、焦ったりしなくなる。

だいたい、夢や目標なんて年齢によって変化していきますから。もしかしたら10年後に全く違う仕事をしているのかもしれない。

でも1つ軸として落語があるのは大きいですよね。

枝太郎

そうですね。とりあえず他に仕事をやっていたとしても、辞めたり、事件を起こさなきゃ落語家でいられるので、それはありがたいなと思ってます。色々と回り道したとしても、最終的に落語に生かせれば、落語家として勝ちなんで。後は自分の作品と、いつか後進としての弟子を育てられれば、芸人としての役目は果たせるかなと。あとは父親としての役目、家のローンや子供の養育費…こっちはかなり大変ですが(笑)。

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi