まず社会に出たことが転機だった
西田
何かの点で変わったことで言うと、気づくことやハッとすることは、既にその都度その都度一つのアクションの中で、必ず気づきがあってやっていることだから、僕にとって一大転機でこれがってモノは、社会人になれたってことかな。
社会に出れたというか。本当にやり方もよく分からず就職活動している時に、採用試験を受け続けて、今の会社に出会ったので、よくぞ社会人にしていただきましたって感謝はあるかな。
会社に入るまでの学生時代は何か目標だったりはあったんですか?
西田
自分の目標とかどんな人間になるかみたいな具体的なイメージなんて、さらさら大学生も高校生のときもなかった。あったとしても高校生の時は、野球もしてへんのにドラフトで声がかかるんちゃうかと思ってるぐらいで。要は自分が社会に対してリアリティがなく、大学生の時も気がついたら何もしないで夕方になり、一日が終わっちゃったねと。この一日を同じ大学生で同じく生きている人はより有効に使ったり、出会いがあったり気づきがあったり。でも僕がやっていることは結局「今日もこの夕日を見ているのか」みたいな、本当に何をもってこの世の中に意味を持って存在してるのかと突きつけまくられた感じやった。
だからそれはつとめてすごいと思うのは、個人の尊厳的にはめっちゃ思ってるんねんけど、社会性だけだと、さらさら自分の中にはないって延々思っていたような人間やったから、学生のころはもちろん活動的ではあったけど、本当に学生時代から心のstay homeはしていたね。
だから今回のコロナ禍の時、自分の中ではめっちゃ懐かしい感じがあって。初めてってより、「ああ〜(懐かしい)」って。一方で学生時代に持っていた気持ちの中には焦りもあったしね。その無為に時間を過ごしている人間が、泰然自若として悠然とこれでいいんだよって思えたら、めちゃめちゃカッコいいと思うねん。行動は全くそうなんやけど、気持ちは焦っているわけね。
西田
このコロナ禍で常識だと思っている範囲が、その辺の映画や物語で感じる以上の現実で降りかかってきたわけやんか。コロナにかかった人はいろんな意味で大変やと思うけど、本当に健康である人も部屋にいることを余儀なくされた。
このことで、考えることや感じることって圧倒的に増えたし、誰もがいま一度自分ってモノが何なのか見つめ直したんちゃうかなと思う。だから人間って、ある種社会って袋の中に存在しているんやろうけど、今回は家や個に近いところでその袋からむき出され、自分にきっちり向き合う人は向き合うことになった。すごくそれが何を意味するのかなと思っていて。
僕はたまたま読売テレビに入り、モノを作る仕事をすることになって、24時間何かオモロイことないかな、何かヒットすることないか考えてきた人間からしたら、自分がほとんど外に出ていても、自分個人の中ではstay homeやった。体でアクションする意味で、もちろん外的に動いているけど、心の中はstay homeだった。
結局モノを作っていくことは、外に向いて何かを伝えるべきことであり、伝えるべき何かを見つけていくことは、「意外と自分の中の旅になるのかな」ってことを改めて思った。
だからそういった意味では、このコロナ禍のタイミングはどういう可能性があるか、若い子を含めてやけど、否応なく自分に向き合う心のstay homeをした人は、たぶんコロナ禍明け以降は、違った形でどんどん発信をしていくんだと思う。もちろんコロナ禍のタイミングでしか出来ない発信の仕方をする人もいたとは思う。僕も少なからずこのタイミングで出来ることがないか色々考えたりしたからね。
焦らされてはいけない
西田
今回の僕の気づきは、焦りたくなる気持ちはあるけど、焦らされてはいけないんだなって。人それぞれのタイミング、人それぞれのテンポ、個人個人独自のリズムを持って生きているから、社会のテンポの中に自分を合わせに行っちゃもうダメだよって強く言ってもらえているような気がする。
これは自戒の念も込めてやけど、僕自身がいろんな場所で喋らせてもらう中で、もちろん頑張ろうはいいし頑張らなあかんし、手を抜くことなんてない。一生懸命いろんなものに向き合うやろうし、自分にも向き合うけど、焦らされちゃいけない。焦るのは人のテンポだからなので、自分のテンポはこれからすごく大切になってくる気がしていてね。そう偉そうに言っている自分が、じゃあ本当の自分のテンポって、いったい何なんやろう?といま思っている。
今の話題に近い話で、以前取材でも、「良い意味でジコチューでいれたら」と言ってました。
西田
だから人によってはジコチュー、自分そのものとか好きなものをするとか、たぶんもうコロナ禍前から言われていたことだと思うんですよ。やっぱり自分のテンポを持たなければいけないよってこと。
それがよりすごく大切になってくるし、いろんなテンポのものが混じりあってくる多様性こそが、これから世の中の新しいスタイルになってくる。だってもうある人はリモートで成果を出すと、それはもうリモートで良いとなるわけでしょ。
今までみたいに気を遣って、わざわざ会社に行くみたいなことはもうないわけやんか。その人が会いたかったら会いに行ったらいいわけでね。「何で来たんですか」と言われたら「会いたかったから」と言えばいい。
まえとあとと、波長派
逆にだからそういう意味では、波長が合わないと成立しない部分が、今も含めてありますね。
西田
望月くんはもともと波長派やんか。だから本当に望月くん自体の存在が、ちゃんと粒立ってくると言うか、前の時代から新しい時代を司るというのか。すごくそこにそぐう似つかわしい人だと僕は思っているけどね。
そういうことはたまに他の人にも言われることがありますね。
西田
それをビジネスに組み立てるのが上手だったりは、今まで大切なスキルやったんやろうと思うけどね。たぶん程なく今の望月くんが持っている波長派の人の感覚は、単純に他の人は真似できへんからね。
望月くんは気を遣ったりする部分もあるかもしれんけど、ちゃんと自分の波長を尊重してるよな。ちゃんと自分の波長って自分の中の枠を、いろんな人を見ている中でも、はっきりあるんちゃうかな。だって望月くんが面白い人と人選している人が面白いねんもん(笑)。
(笑)本当におかげさまでいろんなつながりで。
西田
だからこの「まえとあと」は、コロナ禍前とコロナ禍後って捉えられたり、人それぞれ、今まで生きてきた中で「前」があり、何かがあったから今この「後」がある。「まえとあと」は、やっぱり人間にはどこかに前と後がるとしたら、僕はこの「まえとあと」に取材をして頂いてる人こそが、「あとの人」だよってクローズアップされていくような世の中になって欲しいな。
だから特にこれから思うんやけどね。実績とか何か荷物を背負って仕事するのが仕事の仕方やと思うし、絶対それが変わるかと言えば、そうじゃないとなるんやろうけど、やっぱり今まで以上に毎日毎日気づきを持って生きたいよね。毎日毎日が「あと」になっていて欲しい。
このコロナ禍で我々が、どうしてもならざるを得なかった、仕向けられた環境の中から感じて学べるものだとしたら、「まえとあと」というネーミングってバッチリやなと思うよね。センスね。
過去の成功体験から最適解を求めないこと
結局このコロナ禍で戦争だったり、こんな状況が起きないと、いろんな状況は一気に進まないと思いましたね。
西田
いままで便利なものが世の中を変える時代があったと思う。例えば未来の便利なものは、いっぱい考えついているし出来るようなモノもいっぱいあるんやろうけど、でもそれは目の前に出たら、いろんなモノの選択肢の一つなだけで、そんなに未来に進まへんもんね。
だから今回のこの状況も、もう未来の状況は出来ていたけど、そういう状況にさせられたことで、世の中は変わっていっていることで言うと、もしかしたら世の中の変化は、これからも今回に限らずドラスティックでいろいろなものが出てきてしまうことにもなる。それが歓迎されるべきものかどうかは分かんないけど、あるかもなって気もするよね。
でも改めて、誰かがやるからやると焦ったらあかんってことだと思うんよね。
本当に今回はそこまでは焦ってはいないんですけど、本当に何にもなかったら、この状況だと完全に焦っていると思うんですよね。
西田
そうやと思う。何かが無くなったとか、このままじゃあかんのは、いろんな状況が人それぞれあるから、それはそうやと思う。それにしても何かやらなあかんとか、○○ねばならないの生き方じゃなく、○○をやるという確信というか、突き動かされ方を変えていかなあかん気がしてる。
そうは言っても自分がどれだけ出来るか分からないし、今までは焦っているか焦っていないかで言うと、自分自身が出来ることをどれだけ番組などにセットできるかをある種機敏にやるべしとやっていた。そういった意味では、いま僕はそこら辺の考え方のセットも変えなあかんと思っているけどね。
過去があかんかったわけじゃなくて、人間って時代時代その時その時の環境に自分自身を最適化していくと思うのよ。コロナ禍があった時には、世の中もいったんは元に戻ろうとする。何も戻らないんじゃなくて、けっこう戻るとは思うんよ。
でもここで経験したことがある以上、満額戻るんじゃなくて、違う答え、違う解が出ると思うんよね。次の時代の最適化の答えは間違いなく違った方程式になるんやと思う。
それがコロナ禍の初手の頃は、びっくりするぐらい違う答えが出るぞとか、もう大変なことになるぞって言ってたけど、やっぱり世の中が戻ってくると、いや言うてもってなってくるから、何となくみんなの中で、今までと同じ答えでイケるんと違うかなって期待が高まってくる。高まってくるんやけど、それがその答えじゃなかったときのガッカリ感も大きいはず。
西田
だから最適解は変わるんだろうなと思ってないとあかん。僕は今まで自分が生きてきたルールとか、その環境の中で自分なりの最適解を出してきたつもりやけど、その答えの出し方自体が、過去の最適解の方程式に則らないようにせなあかん。
でも人って難しくて、成功体験がある人は成功体験に乗っちゃうしね。乗るなと言っても無理で、答えはその方が早く出るんやもん。だからそういった意味では、今まで何の実績もなかったり、答えをまだ出してなかったり、出し方が分からんかった人のほうが、むしろ次の時代の答えの最適解に近いかも知れない。自分の中の焦りといえばそれかな。そうであってはあかん。
他の方はどんな感じで捉えているのか分からないんだけど、自分の中では、なるだけ自分をバラバラにしておかないとアカンなと思いつつ、本当にどれだけ出来てるんかと思う自分もいるし、だからずっとそれはそれで焦るって意味ではなく、延々今もせめぎ合いだよね。
でもそれって、暇な学生時代に何もしないで無為に過ごしていた自分が、たまたま会社に拾ってもらったところからスタートした社会的な生活の中で、果たせるものって何やとけっこう自分の中ではガリガリなったわけですよ。
心のstay homeをしていた人間が、社会で答え出せってガラガラガラっとなったんですよ。その時に見つけ出した答えが、番組の中でのヒットも含め、自分なりのこんな方法だったってことやと思うねん。
だから本当に今はそのときに近くて、たとえばコロナのあいだが学生時代、後はこれからまた会社に就職するみたいな感じで、ここから今の時代における最適解を叩き出せるのかどうか。このときに昔の自分がやったことを忘れるぐらいの自分でありたい。
取材のあと
音声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。
[New]まえとあとのあと
スガシカオさんから得た「脱コード化」の啓示
西田
先日たまたまスガシカオさんのラジオ番組「Mercedes-Benz THE EXPERIENCE」を聴いていたら、「YOASOBI」がゲストやったんよ。YOASOBIってコロナ禍で出てきた才能やんか。そのYOASOBIにスガさんが音楽の作り方を聞きはったんよね。
スガさんをはじめとして、ビートルズ以降、音楽ってCやFのいわゆる和音のコードを音づくりのベースにしていた。ある一定の小節の間は和音のベースの中で音をかき鳴らし、そこにリズムが乗り、そこから外れないようなコード進行をベースにした音の作り方をしてきた。だからいわゆる鉄板のコード進行があり、たとえばアリスの音楽だったらこのコード進行みたいなものがあった。
ラジオ番組のなかでスガさんがYOASOBIのふたりにYOASOBIの作曲方法を聞くと、YOASOBIは単音であの音楽を作っていくらしい。つまりコードがない。だからドの次はミで、その後はレが来てと単音で音楽が進行するわけやけど、そこにはコードの縛りがないからメチャメチャ音が跳んだりするけど曲は成立する。「これはクラシックの考え方なんですよね」とスガさんが言ったときに、さらにコード進行をベースに作っていく我々からしたら考えられへんと言った。でもYOASOBIの作品は成立しているわけですよ。
いまJポップを考えたとき、コード進行なしではなかなか曲を作ることができない。でもこのコロナの中で出てきたYOASOBIは、ある種コード派(というものがあれば)からしたら、明快にそのコードを逸脱しているわけですよ。ラジオでこのスガさんの話を聴いたときに、僕は「ああ、これやな!」と思ったわけ。
これから世の中が変わっていく、ゲームチェンジするときに、どこにチェンジするのか理由がはっきりしたと思った。というのは、音楽は抽象度が高いし、非常に極めて少ない個で成立する表現なわけやんか。
音楽作りと歌作りって2人でもできるし1人でも出来る。でも芝居や映画となると、一緒に作る人数と予算の規模がどんどん規模が大きくなっていく。音楽は抽象度が高くて関わる人間が少ない。だから圧倒的に時代の先端を進んで行けるのは音楽だと思ってて。
だからスガさんがそこで感じたことをもってYOASOBIを解説してくれたことで、時代が見えた気がした。
よく若いアーティストは本当に全く譜面の読めない人もいるっていいますよね。譜面なんか読まずに作る人が圧倒的に多いのも、譜面読めるっちゃ読める人からすると、なんか衝撃ですよね。
西田
そうそう。でもクラシックって実は意外と作曲者も譜面を読めずに作った人が、過去にもクラシックの大御所と言われている人でいる。だから要は自由に音楽を引き出して来はる人と、音楽教育の中でのコード。このコードの意味はコード進行の意味ではなく、コードの中にしまわないと統制が取れないというルールの意味で使ってるんやけど。
いま自由とルールの意味でのコードの2つが存在していた中で、改めて新しいコード、つまり今あるコードじゃない「脱コード」に動き出してると思うんですよね。
だから本来だったらコロナがなければ、もしかしたら「YOASOBI」が世に出てきてないかもしれない。要はコードが変わらなければいけない理由がないから。でも世の中が大きく変わっていくダイナミズムの中で、たぶん今までのコードではダメだったんですよね。変わることを予兆したり、予見している感覚が、たぶんYOASOBIを世の中へ押し出してきた理由になってるんちゃうかな。
なるほど。あいみょんとかOfficial髭男dismなんかはYOASOBIよりもちょっと前に出てきたミュージシャンたちって、YOASOBIと違うのは、あいみょんとOfficial髭男dismはちょっとメローというか回帰的なサウンドが受けて、一周回って新しいって感じで出てきましたよね。そんなミュージシャンたちと「YOASOBI」は少し違うってことですか?
西田
いや、たぶんたとえばあいみょんやOfficial髭男dismがダメじゃなくて、価値はそれぞれあるよね。それとは別にその次なる価値づくりかな。要は今までのコードからは飛び出した「YOASOBI」の表現が、世の中自体で受けたのが、これから時代が変わる理由ってことやと思うねん。
プレスリーがいた時代にビートルズが現れたけど、そのままプレスリーが好きな人はずっといるわけやん。でも一方で並行しながらビートルズも現れたわけやんか。そのタイミングで音楽が次に変わると思った人はいっぱいいたけど、その瞬間に「そうだ」とは思えないわけよ。
なるほど。たしかに過渡期って、過渡期なので逆になかなかわからないですよね。
西田
そのときは分からないけど、今これだけ世の中が結局動いていく瞬間に近いようなものが、「YOASOBI」の登場にあるとスガさんのラジオのお話から感じた。それはめっちゃ嬉しいわけじゃないけど、時代の進む瞬間に立ち会えていること自体は感謝するべきやと思った。もちろんコロナが良いとか悪いとかって話じゃなくてね。
それと捉え方でいうと、年齢にとらわれないことも脱コードの一つの理由になる。若いから新しい価値を生むって時代じゃない。
それはすごく思います。最近の仕事でそれを感じる瞬間がありました。
西田
今までは何となくコードを脱することができない大人とコードから脱していかなければいけない若者がいる状況で、半ばところてんのような押し出される形の時代の作り変わりかたやったけど、このコロナ禍で実はそれまでの変わりかたじゃなくて、年齢関係なく変化に気づいた人が変わってしまった。だから逆に若い子でも全然わからへん子はめちゃくちゃおると思う。
そういう意味では、このコロナ禍の状況は、若い子は分かんないままになっちゃいそうな余地がありますよね。横につながるベースがいまオンラインばかりで連帯感が少しなくなってますよね。まだ学生よりも社会人の年次がある人のほうが、これまでの貯金で何とかつながってるかなって。
西田
だから漠たる不安を持ったまま、何となくこうちゃうかな?って時が過ぎてしまう可能性もあるだろうからね。逆に言うと何となくこうかなみたいなときって、極めて個人の表現に近い抽象度の高い芸術的なものにしろ、音楽的なものが花開くタイミングでもあると思うんですよ。そこはつながりなんて関係ない。
自分は「こうやねん!」と表現を発する子たちは、たぶん今まで以上にこれからは自然と現れているんちゃうかな。
否定をすることは変わらないと言ってるのと同じ
西田
ラジオの話に戻ってスガさんが言ってたことを言うと「僕は無理なんだよね」と言った。
スガさんが無理って言うのも不思議な感じがしますが。
西田
でも俺はスガさんが無理って言った時点で、スガさんは「やりはるな」と思った。否定はしてないからね。そこで否定をすると、自分は変わらないって言っていることと一緒やんか。だからスガさんがYOASOBIの音楽の作り方を、若いのはいいよねとか、でもそれはそれでしかないよねって言ってしまった時点で、自分は変わらないってことになるやん。
だからスガさんはコードから抜け出そうとしてはると思って期待してる。今後のスガさんの音楽はたぶんめっちゃ変わると思う。俺は感覚的に思ったね。全然スガさんとはしゃべってないんやけど(笑)。みんなが聴くラジオと同じラジオを30分聴いただけなんやけどさ(笑)。
コードを脱ごうよ
西田
コロナ禍の中である種これは良い悪いどう評価するかはわからんけど、欲ってものがなくなってきている人が多いと思うんですよね。例えばオシャレをしたいとか、みんなに見せることもあるし、外に出るときもあるから洋服やアクセサリー買うとかあるわけやん。
でもマスクをして出歩くってところに対して、マスクが一個かぶさっている時点で、本当の意味で服を買っても、、、というところもある。それも時代によってまた全然違う形でファッションも捉えられていくやろうけどね。
今はいったん現コード下における欲望がなくなっていく時代だと思う。だからそれを置き換えていくためには、「新しいコード」を作らないといけない。
欲望って生きるエネルギーになるものやと思うから、欲望が減ることってすごく素敵なことでもあるやろうけど、一方で欲望を否定もしてはいかんかなと思う。その部分で言うと「脱コード」をすると新しい欲望が生まれるから、積極的に今までの自分を守るのではなくて、これからの自分って何なのか「コードを脱ごうよ」って思うかな。
スガさんがそれを教えてくれて、自分は「脱コード化」を実践をはじめている感じかな。だからコードを脱することを恐れない。前例にとらわれないことを1つの行動規範にしていくことは、大切なんちゃうかな。
コードを脱する瞬間、背中に稲妻が走る
どっちかになりますよね。「脱コード化」を考える人と、逆に現コードにすがりつかないとどうしようもないみたいな。
西田
そうね。だから現コード上でいいと思っている方は、人にコードを強要しないことやと思うし、コードを脱した人が「コードを脱しないとダメだぞ」とことさら言う必要もない。そこは自然の赴くまま、月と太陽があるみたいなもんやね。
ただ、今までのボリュームのバランスが変わってきている。だからボリュームが変わると、どっちが陰でどっちが陽かわからへんようになるだけでね。そんなところで陰と陽で戦っても仕方ない。「現コード満足する側」と「脱コードする側」は相反するバランスの価値観なわけだから、決して皆が「コードを脱してください」じゃなくて、別にコードを脱しないことがダメなわけじゃない。
でも実は本当は体で「コードで脱すること」をビシビシ感じている人がいるのに、「コードを脱すること」がわからないまま、その場でずっとビシビシ感じてコードの中にいたら、それはおかしくなっていくやんか。だから「ああ、そうか!」と分かった人はコードを脱してきたらいいし、「何かやらなあかん、何かやらなあかん」と言ってねんけど、別に今のコードの中でしっかりできる人は、そのままでいたらええと思う。
二郎さんやスガシカオ氏が言ってるみたいな、まさに二郎さんにおける気づいたポイントが、他にもそういうビシビシ感じている人がいたら、何でSwitch入れてあげんねんというのはありますよね。
西田
あるねん。この話をちょこちょこしてたわけですよ。そうしたら話をした何人かの背中に稲妻が走ったって。こういう時に「ハッ」と気づく人って背中に稲妻が走るみたい。「二郎さん、今の話すごい背中に稲妻が走ったみたいです」と何人も同じこと言うねん。
二郎さんも背中に稲妻が走ったんですか?
西田
僕も背中やった。背中がピーンとなるんよね。だから明らかに話をしたあと行動が変わっていく人もいた。そういう部分をいろんな表現やメディアの中でも、何か伝えることができたらいいなと思っている。それぞれ違う方法論がいろいろあると思うけどね。
自分と異なるものをいかに受け止めることが出来るか
西田
時代が変わっていくかもしれないなと思ったり、自分の常識で捉えられへんようなことが起きたときにも、決してそのこと自体を違うなって潰していくより、それは何でなんかなと思いながら一回受け止めること。その度量はいると思うね。
自分と違う異なるものをどう受け止めるかってすごく重要で、自分の正義じゃないものは悪だ!ではなくて、自分と違う正義がもう1つあるぐらいの心持ちが必要やね。
本当おっしゃる通りです。僕はもうそんな感じなので。
西田
でもどうしても今いろんな意味でストレス状況になっているだけに、ストレスの理由でいうと、ある種の正義を持ってる人が立っちゃうわけやから、結果的に異なる正義に相対したら、「それは悪だ!」と言ってしまうことになりやすくなっているね。
僕も含めて努めてヒステリックな環境だと思うし、脳科学で言えば、「それは悪だ!」と叫んでも何も生まない。プラスの脳みそにならないよね。
より脳が萎縮するような方向になりますよね。
西田
そう。今そこが難しいけどね。
ある意味僕は、20代のうちは「悪」がいるって思うような時代もあったんで、振り返ってみるとよかったかな。そこからその先に行き着いたので、今のいろんな正義があるんやって感じになったので。
西田
もっちーの中でいろんな境遇や環境の中で、いろいろ想いが届かなかったりとかモヤモヤした時期もいっぱいあったやろうしね。それが今活かされているかもしれないですね。
最近本当に社会正義とか社会性とかいわゆる社会的弱者を守ろう的なことを押し出すような人たちの中で、何か二面性がある事件が起きることが多い。でもあれは何なのかなって思います。
二面性は誰でもあるのかなとは思うのですけど、個人的には社会正義をガンガン押し出している系の人たちが、間逆な側面のある二面性が多いことをすごく感じることが多いです。
西田
表出しているものの中で全てではないやろうからね。すべて捉えることは出来ないかもしれないけどね。ただ少なからず人って表裏はあるだろうから。
二面だけじゃないかもしれないですけどね。
西田
そうね。多面ね。
でも一方的な正義を信奉しているほうが、たぶん人間は楽なんで、そうなりやすい人が多いんだとは思うんですけれどね。
西田
確かにそれは言えるよね。でも本当に信じていたり、こうだろうって思っていたものがそうじゃなかったこともあるよね。たとえば天動説って天が動いてる説やけど、実は地球が動いていることが分かってないから、「何言ってんねん。明らかに動いてるのは天やないか」と言ってたものが、今誰も「地動説」を疑わないわけですよ。地動がいま当たり前の話だと公理になっているわけでしょう。信じていたり、自分たちが信じて疑わないものを捨てることって、めちゃめちゃ難しかったりするだろうし。
めちゃめちゃ難しいと思いますよ。昔常識と言っていたものは、だいたい今は常識じゃないことを考えると、今常識やと言っているものはたぶん100年後、200年後は違う可能性も高いじゃないですか。
西田
そこの感覚に近い何かが今生まれてきていて、決してだから次の時代に行こうぜとか良い悪いの話じゃなくて、これはファクトなんだよね。だから良い悪いとか観念で言っているわけではない。事実としてそうなっているだけで、それをどうしようかって段階。自分が思っていたものとか絶対こうだと思っていたものを1回取っ払った方がいいかもしれんぞって、それに対して仮説を立ててるんよね。
捨てるなり置いとくなり、1回違う感覚で見てみるなり、自分とは全然違うもの自体をもっと持っていくでしょって思ったり、だからそのことによって自分にあるコードは外せるようになると思ったりする。それがすごく楽しくてワクワクする。だからそう言った意味では、コードから考えていくことを気にしていきたいのが今ですね。
一番嫌いだと思うものを食べてみる
西田
いろんな状況の中でもどうワクワクできる自分でありたい。それはみんながどうであろうが関係なく、自分がワクワクできることでね。今までの自分というコードは1回置いてしまって、自分の中になかったものに耳を傾けたり、意識を持っていくことがすごく重要だと思っている。僕はデジタルの中でのテキストだけじゃなく、紙というものを読む楽しみが今になってわかった。
決してだから時代が変わったから、そこに私たちは付いていける付いていけないじゃなくて、自分の持っている持ち物を1回置き、今までと違うところを見ようすれば、視界にいろんな風景が映ってくると思うし、実際僕は今はそこのワクワク街道を走っているって感じですね。
みんなワクワク街道を走った方がいいと思うんですけどね。
西田
だから一番わかりやすい脱コードは、自分が一番嫌いだと思うものを食べてみることだと思うねん。いま絶対嫌いなものがおいしいと思う。これまで話した「脱コード」の理屈をわかった上で、嫌いなものを食べたときに、「はっ、こんなところにおいしさがあったか」て思えると思うねん。
Basic Insight Vol.4「いま改めて正しさの意味を考えてみる」にも出演決定!
Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi