スカイツリーが建ったまえとあと[拡張論] 【前編】

米山勇
建築史家
中川大地
評論家/編集者

前回、米山さんに語っていただいたスカイツリーの話をさらに拡張する流れとして、今回は『東京スカイツリー論』を書かれている中川さんと対談していただきました。思った以上に面白い話になったと思うので、それが伝われば嬉しいです。

Profile

米山勇
1965年東京都生まれ 建築史家 東京都江戸東京博物館研究員
早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。早稲田大学非常勤講師、日本女子大学非常勤講師などを経て現職。著書に『写真と歴史でたどる日本近代建築大観』(全3巻)(監修、国書刊行会)、『世界がうらやむニッポンのモダニズム建築』(監修、地球丸)、『日本近代建築大全 東日本編』『同西日本編』(監修、講談社)、『米山勇の名住宅鑑賞術』(TOTO出版)、『時代の地図で巡る東京建築マップ』(共著、エクスナレッジ)、『けんちく体操』(共著、エクスナレッジ)など。
「日本建築家協会ゴールデンキューブ賞特別賞」(2011年)、「日本建築学会教育賞(教育貢献)」(2013年)受賞。
中川大地
1974年東京都墨田区生まれ。評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21~23回)。ゲーム、アニメーション、テレビドラマなどのポップカルチャー全般をホームに、日本思想や都市論、人類学、情報技術などを渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論などを執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』など。

Index

タワー的公共性とは何か

米山

中川さんが取材を受けた記事を読ませてもらいました。

中川

ありがとうございます。

米山

印象の強いものがあって。

中川

スカイツリー10周年の記事ですかね。産経新聞の記事ですね。

米山

その記事の中で中川さんが言っていたのは、震災のときの帰る道すがらスカイツリーがふと見えたとき、 ものすごい安堵感を覚えたと。

中川

そうなんです。

米山

そういうランドマークの役割というか、ランドマークは常に見えなければならないって認識されがちだけどそうじゃなくて、 ふと見えるってところの精神的作用、ランドマークが見えなくても、そこにあるんだってところに意味があると思うんです。だからこそ、それが実際に見えた時に、とてつもない作用をもたらす。

中川

まさにそうですね。2008年から僕は上池袋に住んでいて、池袋駅から明治通り沿いにうちの方まで向かう途中に堀之内橋という橋があるんです。これは埼京線や山手線が走っていく線路に架かっている跨線橋なんだけど、その橋から望む大塚側の方向にまだ建設中だったスカイツリーがぬっと見えるんですよ。それで「え、こんなところから?」っていう、意外なところから顔を出すあの塔の「どこからでも見える力(りょく)」を再発見する体験になりました。

僕の実家は向島3丁目の、ちょうどスカイツリーから400mくらいの位置にあって、もし倒れてきたら第2展望台の下あたりに潰されるぐらいの距離感にあるんですが、そのスカイツリーが今度住むことになった上池袋のアパートへの通り道から見えたことには、すごい運命的なものを感じたんです。

今日ここに来るときも京成線の車窓からずっとスカイツリーが見えてました。スカイツリーが見えるエリアって普段は繋がりを感じないけれど、スカイツリーのようなランドマークの景観を共有することによる、ある種の想像的な共同性が、この10数年で醸成されている感覚があると思っています。

それは僕の著作である『東京スカイツリー論』という本の中では、そういう共通感覚を「タワー的公共性」という言い方で論じています。

それは(スカイツリーが建つ前は)東京タワーだったけどってことですよね。

米山

その昔は東寺の五重塔だって、上方でその役割を担っていたのかもしれない。その「タワー的公共性」をもうちょっと教えてほしいんだけど、それはさらに言えばどういうことですか?

中川

僕がその着想に至ったきっかけは、エッフェル塔についての文化人たちの記述でした。もともとエッフェル塔はパリの伝統的な街並みからすると、19世紀の万博の時に産業革命の精華を誇示する非文化的な異物として登場したと言われています。

つまりノートルダム寺院だったりエトワール凱旋門だったり、石で造られたランドマークがパリのアイデンティティーだったのに対して、エッフェル塔のような殺風景で不調法な鉄の塊を立てるなどとは何事かと、当時のパリの保守的な人たちからはすごく叩かれていた、と。

この「まえとあと」の前回の米山さんのインタビューでも、新しいランドマークというのは常に古いものと揉めていくものであると語られていましたよね。その揉めていくプロセスこそが大事だと仰られていますが、まさにエッフェル塔がそうだったわけじゃないですか。

つまり近代のタワー建築には、ある種暴力的な近代主義の誇示みたいなところがある。ただ、それがやはり時間を経てパリの歴史といろいろと軋轢を重ねていくことによって、むしろパリのそれまでの歴史ある暮らしの風景を際立たせるような役割を担うようになっていく。たとえばロラン・バルトの著書『エッフェル塔』では、エッフェル塔嫌いを公言して憚らなかったギ・ド・モーパッサン(作家)が、目障りな塔を目にしないで済む唯一の場所としてエッフェル塔内のレストランによく通っていた、というエピソードが書かれているじゃないですか。

そんなふうに「そうか、タワーはこういう『どこからでも見える力』によってそれまでの風景との葛藤を繰り広げながら、逆説的にその都市で生きていくことの実感性を人の心にうがち込んでいく機能があるんだな」ということに思い至って。そこで僕の本では、東京スカイツリーに至るまでの代表的なタワーが持っていた、それ以前の風景への介入力としての「タワー的公共性」の系譜を対比的に論じてみたわけです。

ランドマークの持つ力。暴力性と意識を変える力。

米山

そうですね。京都タワーにもそういうところがあります。あの京都タワーのデザインって結構きわどいと思うんだけど、それを設計した山田守(建築家)はモダニズムの旗手で、実際作ってきたものは先鋭的でかっこいいんですよ。

ところが山田は晩年に京都タワーと日本武道館を同じ年に建てていて、ちょっとびっくりするぐらいキッチュなんですよね。彼に何があったのかわからない。2つの建築で極端に評価が変わり、不遇ともいえる晩年を送ったんです。

平林

武道館って評価されてないんですね?

米山

建築的にはあまり芳しくないですね。

平林

僕は好きじゃないけど、京都タワーはあまり近寄りたくもないもんね。

米山

ただそれでも建った当時から世論は変わってきています。パリのエッフェル塔にしてもそうだけど、ランドマークが人間の意識を変えていくことってあると思うんですよ。

もちろん、時代がそうさせたこともある。でも、それだけじゃなくて人間の考え方が、ランドマークがあることによって、変化していくこともあるんじゃないかって気がするんです。

それってランドマークが否が応でも目に入るからですか?

米山

そうそう。ランドマークってそういう力があると思います。さっき中川さんが暴力的って言葉を使ったけど、時には本当に暴力的なまでに人間の意識を変えていく。

中川

もともと建築なるもの全般が資本を集約して権力を掌握する者がおこなう営みなわけだから、ランドマークを作ろうなんてことは本質的には権威の誇示以外の何物でもないと思います。それがだんだん「タワー的公共性」のようなかたちで人の心に馴染んでくるというのは、結局大衆の側が順応させられているということでしか、ないと言えばないんですが。

米山

ランドマークに「違和感を感じなくなる」というのは、ある意味、権力に敗北していく過程なんですよね。

中川

だから最初はスカイツリーが建つときは嫌だったんですよ。下町民の感想として「ちょっと待てよ。そんな世界一の600メートルの地デジの電波塔を建てるとか、この街のこと何もわかってないな」みたいなつもりで、反対運動チックな気持ちで物申しに行こうとしたのが最初でした。

ちょうど当時mixiが盛んで墨田区コミュニティの中で「こんなタワーの誘致計画が出ましたよ、皆さんどう思いますか」みたいな感じで賛否両論が交わされることが2006年の誘致当時にあって、そこに僕も参加していたんですよ。

ただ、東京都や墨田区が公金で新タワーのための用地買収をしたりするのでなく、東武鉄道が自分のカネで生コンクリート工場だった自分の敷地に建てようという話でしかないので、よほどの迷惑施設でないかぎり「住民」の立場ではそれを止められる理屈がない。それだったらせめて住民感情を伝えた上で、少しでも土地の文脈に即したマシなものを建ててくれよみたいな方向に気持ちを切り替えて、墨田区・東武鉄道に対して住民有志の要望をまとめて持っていくところから、僕はスカイツリーにはコミットしていきました。

スカイツリーとX・Y軸とZ軸の在り方で見方が変わる

中川

前回の米山さんのスカイツリーの話で「おっ」と思ったのは、「Z軸」のある景観をもたらすことが平坦なこの地の宿願である、というお話をされていたじゃないですか。その江戸期以来の悲願をスカイツリーを建てる人たちがどれだけ意識してたんだろうか、という話題がありましたよね。

そうしたZ軸のコンセプトは多分に考えられていたところもあると思っていて、ちょうど候補地を決める有識者検討委員会で墨田区以外にも埼玉や15か所ぐらい候補地がある中で墨田区が選ばれていったんですけど、その委員長をされていた中村良夫先生(景観工学、国土史、東京工業大学名誉教授)が最終的な答申をまとめられてるんですね。

墨田区のこの辺りは戦後の開発期にコンクリートでかつての隅田川の風情が塗り固められてしまった高度成長の犠牲地みたいなところがあるけれど、ここはやはり時空を貫く超古代の脈絡に繋げるべきであるといった趣旨の記述があって。

米山

そんなことを仰ってるんですか?

中川

それで中村先生が検討委員会の過程でヘリから墨田区を見たときの平坦さと隅田川と荒川だったりのY軸的な広がりなんかも視察しつつ、そこで新タワーから見下ろされる風景が、ちょうど江戸時代に鍬形蕙斎という絵師が描いた「江戸一目図屏風」そのままの景観であるという発見をされたそうなんです。

当時の江戸人たちって別に高層建築もないし、空を飛んだことがあるわけがないから、 あんなふうに江戸の街をまるで鳥瞰するような構図で見えるはずがないのに、それを想像力で描いていた「江戸一目図屏風」。

その光景にまさにマッチしているということで、中村さんのアドバイザリーの結果、最終的にスカイツリーが建ったあと、高さ350メートルのところにある第1展望台「展望デッキ」に「江戸一目図屏風」のレプリカが実際の景観と重ね合わせられるように設置されているんですね。

米山

知らなかったです。いま話を聞いていて面白いと思ったのは、スカイツリーの姿を俯瞰的に見てますよね。要するに飛行機から見た感じだし、「江戸一目図屏風」もそう。僕が言ってるのはどっちかというと仰観的なことで、絵師もそうなんですよ。やっぱりランドマークは見上げるものです。逆に飛行機から俯瞰で見ると、ランドマーク性は喪失される。

飛行機に乗ったとき、富士山が上から見えるじゃないですか。 あれを見たとき「何なの?」って気がしますよね(笑)

中川

(飛行機から見る富士山は)確かに人間が普通に感じる富士山の存在感とは違う何かになってますよね。

富士山は新幹線から見るから良いみたいな。

平林

富士山は見上げないとダメなんですか?

米山

ランドマーク的にはダメです(笑)江戸の人って否が応でも見上げるしか手段がなかった。それが近代になって見下ろすって行為が日常的になり、ランドマークのあり方が激変したと思います。まして、飛行機が普及してね。

平林

例えば京都だと京都に来たり、または帰ってきたりしたとき、京都駅から見える京都タワーって帰ってきた感があってランドワークかなって思うと。同じように飛行機で帰ってくると成田方面だと九十九里浜が見える。成田または霞ヶ浦が僕にとってはそういう意味での帰ってきた感になる。そしたら、ああいうのもランドマークですか?

米山

近代になって出現した、もう1つの「ランドマーク的な存在」かもしれないですね。ランドマークって本来、Z軸じゃないですか。でも平林さんが飛行機から感じる「ランドマーク的なもの」はX・Y軸なんですよ。

平林

それが今思ったところなんですけど。

中川

海である九十九里浜とかは海抜ゼロだからZ軸自体がゼロである、と。

米山

そうですよね。なるほど、X・Y軸のランドマーク性は新鮮ですね。

平林

自分の目線が変わればそうなるのかなと思って。羽田空港に帰ってくるとアクアラインが見えたりね。

米山

飛行機に乗ると意識がいつの間にかZ軸一色になっちゃうのかもしれないですね。地上に暮らしている限り、意識はX軸・Y軸なんですよ。で、ときどきランドマークが見えたときに、ふとZ軸の意識が働くもんなんだけど、飛行機に乗っちゃうと全員がZ軸ばかり感じているのかな。

平林

Z軸を逆に失っちゃうんじゃないですか?

中川

失っちゃうんでしょうね。つまり通常ランドマークって、地表にいる人間の視点からZ軸を見上げられるようなアイコンを見つけることで、その「ランド(土地)」のイメージを表象する「マーク(標)」を得るという体験ですよね。それって、想像上の地図に印をつけるような行為だとも言えて。

しかしZ軸上をはるか隔てた飛行機からの視座を得ることで、自然の地形性そのものが、仰角や俯角によるパースなしにまさに地図で描いたような純粋な平面のようにも見えるという体験が、人間に解放された。ここでは九十九里浜や霞ヶ浦といった「ランド」の地形形状そのものがそのまま「マーク」になっている。そういう人間の地理認識における記号と実際の視覚像の一致というのが、いま話しているX・Y軸の「ランドマーク的なもの」の本質なんじゃないでしょうか。

米山

なるほどね。

平林

平面的にしか見えなくなるから。

米山

そうですね。まさにそうです。そうか、Z軸を喪失してるんですね。

中川

ちょうど江戸東京博物館で「ザ・タワー」展覧会があったじゃないですか。 あのとき雑誌「東京人」で関連特集を組んでいるんですが、そこに中沢新一さんのインタビューがあって、西洋的な神に近づく権威の象徴としてのバベルの塔的なものと、東洋的な土着性がせり上がっていく仏塔であるストゥーパ的なものとにタワー建築の系譜を分類する議論をされていて。で、要は自分が上に登ることによって神の視座を得て、いま話しているようなZ軸を平面化してしまう体験がバベル側のタワーにまつわる欲望だったんだけれど、現代におけるその極致が人工衛星とリンクしたGPSだという話をしているんですね。

つまり、かつてのバベル型のタワー建築が担っていた視野の全てを平面化してしまう権力的な欲望の究極が、いまや「Google Earth」になっているという論点を提示されているんですが、今の話はそこにも繋がる議論だなと思いました。

米山

それを考えてみると、例えば明治の中ごろに凌雲閣のようなものができてくるのは、まさにその「Google Earth」に向けての準備段階だったのかもしれないですね。

中川

凌雲閣が担った見る/見られるの両義的な欲望については、細馬宏通さんが『浅草十二階―塔の眺めと“近代”のまなざし』で詳しく読み解いていて、もともとエッフェル塔のすごい超越的なランドマーク性を真似しようと思ったんだけど、レンガ造りの中途半端な50メートルぐらいのものにしかならなかった。結果として実現したのは、「適切な低さ」であるということを書かれているじゃないですか。

つまり、東洋初のエレベーターの導入など最先端の技術を投入してキリッとしたランドマークを目指そうという当初の背伸びが早晩崩れてしまって、時代を追うにつれて十二階下が私娼窟の集まる猥雑な空間になっていったのと重なるような感じで、要は誰かの人間的な活動を覗き見できるような淫靡な距離感しか浅草十二階の場合は実現していなくて、それが面白いのだと。

米山

確かに僕もね、それはちょっと考えていた。中川さんの記事を読んでいて、凌雲閣の存在ってすごく微妙な高さだったと思った。50mちょっとでしょ。江戸川乱歩が『押絵と旅する男』で、 まさに凌雲閣から双眼鏡で覗いて、そこに見える女性に恋しちゃう話を書いたけど、例えばスカイツリーに昇ると人の姿なんて意識されないですよね。

中川

そうです。スカイツリーは人の姿は意識できないんですよ。僕も実家が近いから、展望台に上って5歳の甥っ子と一緒に「ばばんちどこにあるかな?」とか探したりするんですけど、やっぱり浅草十二階的な意味での人の営みの近さは感じられない。とはいえ全てを平面化してマップデータにしてしまうGPSほどでもなくて、ちょうど荒川と隅田川が東西を囲んでいる、地図で見た墨田区の地形のX・Y軸の特徴を、その真ん中あたりから俯瞰するという体感が得られるんですよ。

あるいは、この土地の住人なら江戸時代までは誰もが体感していたはずの富士と筑波という二つの山のZ軸を見上げる視座。それは近代になってからの東京の都市開発で見えなくなってしまったもので、そういう人間の生活世界から失われたランドスケープとの繋がりを意識できる場を東京の東側に取り戻すことができたのは、スカイツリーが建ったあとの大きな効能ではなかったかと、個人的には思っています。

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi