伏見にもどったまえとあと / 北澤雅彦+高本昌宏

  • 北澤雅彦おこぶ北淸 店主
  • 高本昌宏多拠点居住プランナー

写真:平林克己
聞き手/編集/執筆:望月大作

目次

  • 3月に家族で伏見へ移住
  • 伏見に縁が出来たきっかけ
  • ふたたび、伏見へ
  • 昆布屋を継ぐ意思はなかった
  • 二人は戻った伏見で出会った
  • 映画プロジェクト
  • 試行錯誤があって今がある
  • エイリアンでいたい気持ち
  • 取材のあと
  • 3月に家族で伏見へ移住

    高本昌宏多拠点居住プランナー

    ずっと北澤さんが言うわけですよ。「東京からええこと言ってくるやつはおるけども、消えおる」と。

    北澤雅彦(おこぶ北淸 店主)

    そうそうそうそう。

    高本

    僕も何回もその話を聞きながらね、抗うわけじゃないけど「そんなことないですよ、決して消えたわけじゃなくてずっと愛を込めてる人もいます!」と。でも「そうですか」って感じで。やっと今年の3月に家族まるごと移住をしたんです。家族の協力に本当に感謝なんですよ。

    北澤

    移住については出会った頃から言ってはりました。「何でまたこんな地方にくるねん」と思って「無理やろなと・・・ほんま内心半分以上思ってた」けど、見事にまさか家族を連れてくるとは思わへんかった。

    望月

    ちなみに高本さんところの家族構成ってどんな感じなんですか?

    高本

    妻と今年中1の娘がいるんです。はじめ娘は「小学校卒業まではいやや」と。「卒業したら考えてもええけど」だった。さすがに小学生のお友達と離れるは嫌だったと思いますのでそこは6年待ちました。

    北澤

    そこまでして連れてこなあかんねや。

    望月

    今この時期だったのが、よりすごいですよね。

    高本

    コロナ来る直前ですよ。それも本当に流れがあって、12月中旬に直感で「よっしゃ今しかない」と思ったんですよ。「もうマンション売ろ」と。ビビっと来たんです。直感で動くんで。売ろうと思って家族会議で「伏見に行こう」と。

    北澤

    奥さんはどうやったんですか?

    高本

    大反対ですよ。もともと小学校卒業するまでは移住はしないという話ではあったのでタイミングではあったものの、もちろん激怒です。でも移住についてはずっと家族で話をしていて「今しかないから」と。最終的に娘が「パパわかった」と。「前から約束はしてたし、伏見に行ってもいいよ」と。それで決めて、お正月前にマンション業者を決め、年末ギリギリに売りに出し始めた。

    年明けに内覧がポロポロ入り、これもすごいご縁なんですけど、中旬に新潟柏崎のリタイアされた元経営者の方が、東京のセカンドハウスとしてとても気に入ってくれて。何かが合ったんでしょうね。何かしらんけど君から買いたいと言われ、そのまま買っていただいたんですよ。1週間してコロナですよ。

    おそらく1週間決断が遅かったら世相からしてもアウトでしたし、ギリギリセーフ。今、コロナも徐々に落ち着いてきて、その方から「買ってよかった、ありがとう」とこの前お電話いただきましたし、双方で良かったです。

    北澤

    セーフというか、すごいよね。

    高本

    本当にその方に感謝してるんです。柏崎にもコロナが落ち着いたら必ず行こうと思っていて。そんなご縁もあって、いま京都の町屋をお借りしてるんです。全てのご縁が重なってるし、想いとしては日本の価値観が変わった伏見は京都にして京都にあらず。やっと住めたなと。6年かかりましたね。

    望月

    娘さんも環境の変化が大変ですよね。

    高本

    娘もやっぱり伝統と前衛が交叉する場所としての京都に住まわせたかったんですよ。僕自身が岡山から京都に来て、京都の街って本当に多様な価値観があることを知りました。

    伏見に縁が出来たきっかけ

    望月

    何で伏見に来ることになったんですか?

    高本

    伏見に来ることになったのはひょんなことで、学生時代に住んでたところだったんですよ。大学が同志社で、大学に行くときに、ちょうど伏見は今出川キャンパスと田辺キャンパスの中間なんですよ。

    望月

    高本さんが学生のころ、もう田辺にもキャンパスあったんですね? 

    高本

    そうなんです。田辺のキャンパスが出来て何年目だったかな、まだ新しかったですよ。

    望月

    そうなんですね。

    高本

    そうそう。僕は最初二条に住みたかったんですよ。

    北澤

    京都の街中のおしゃれなところやね。

    高本

    自分でね、「クロール二条」っていうおしゃれな1ルームマンションの部屋も取ってたんですよ。でも親が「あかん」と。

    北澤

    経済的にあかんかった? 

    高本

    「贅沢じゃ!もっと安いところにせられ〜」と。それで大学生協の紹介で、木造のアパートのもゝ山荘の一室に住めと。それが僕の伏見での生活のスタートです。

    北澤

    それは何年前ですか?

    高本

    もう二十数年前です。

    北澤

    二十数年前か。高本さん僕といくつ違うんやっけ? 

    高本

    いま僕49なんですよ。

    北澤

    それやったら、僕と9歳違うんかな。20歳のときに住んでるなら、そのころちょうど僕も伏見に住んでいて、子どもができたころ。

    高本

    どこにいたんですか?

    北澤

    僕は肥後町におった。今でも住んでますけど、ちょうどその頃、結婚して子供も出来て昆布屋の跡を継いでていろんなことが安定していた時期です。

    高本

    伏見に住み始め、結局2年住んでました。当時は田辺キャンパス2年、その後今出川キャンパスで2年だったので、バイトもしながら西陣近くの堀川上長者町に引っ越しました。そこに2年間住んで僕の京都生活はいったんそれで終了。そこから就職してずっと関東だったんです。

    ふたたび、伏見へ

    高本

    何で今から6年前に伏見に戻って来たのか。大学の親友の京都での結婚式に呼ばれたんですよ。親友は宇治の御蔵山が実家で、よくもゝ山荘に遊びに来ていました。僕が友人代表の挨拶で喋ることになり、「何を話そうかな」って思ったんですよ。彼は僕の住んでいた桃山荘で、とある年の大晦日の日に当時好きだったアシッドジャズやヒップホップでのミニDJパーティーを開いたとき死にかけたんですよ。

    北澤

    へー、あんなところで。

    高本

    こじんまりとですけど。フォアローゼスやカティサークを飲み干してから、トイレに行って帰ってこなくなり、ずっと断末魔のような吐瀉嗚咽の声が、まるで除夜の鐘のように「ボエ〜!」って一定の間隔で聞こえてくるんですよ。それがあるタイミングで鳴り止んだ。見に行ったら、もう両目が昔のテリー伊藤さんの倍くらいの限界を超えた斜視になっていて痙攣もしていて。急性アルコール中毒で死にかけたんですよ。みんなで一生懸命温めて回復したんですが、その時の話を結婚式で披露しようと。こんな死にかけたやつが、僕より先にベンチャー企業に入って成功しながら刺激を与えてくれてるんで「生きていてくれて、おめでとう」って話で。その取材をするのに、もゝ山荘に写真を撮りに行ったんですよ。そうしたら、部屋が空いてた。

    北澤

    自分の部屋が空いていたんですか? 

    高本

    自分の部屋も空いていたし、もう1部屋の広い部屋も空いていたんです。そのとき「そうだ、ここにもう1回住もう」と思って。

    北澤

    そこは何で急に? 

    高本

    前にいた会社がミクルという会社で、15年前からオフィスレスで、フルリモートワークやったんです。そのときに自分の家の近くにアトリエを持っていい制度があって、府中の家の近所にアトリエを持っていたんです。めっちゃかっこいいコンクリート打ちっ放しで、ガラス張りでカッコ良かった。でも、心から底冷えする部屋で部屋の中でエアコンかけても足が冷たくて過ごしにくかったこともあってそこを解約して、思い切って桃山荘に戻ってきました。

    望月

    関東から一気に関西ですね。 

    高本

    一気に関西。

    北澤

    何でそうなったん? それは何かあったんですか? 

    高本

    伏見に住んでるときは伏見って別に冴えないところに見え、洛中やろみたいな。でもいったん出ると伏見の方が温かいなって。あと何で戻ったかと言うと、北澤さんの存在ですよね。

    北澤

    それはでもその前は僕知らないんで。

    高本

    もう一度もゝ山荘に住もうかどうしようかないっていうときに、

    北澤

    (僕と)会ったんですか? 

    高本

    そうなんですよ。そのときに京都移住計画のタナカユウヤくんがいて、たまたま僕が前にいたロゼッタストーンの部下が、その京都移住計画の広報のお手伝いをしてた関係もあって、そんなご縁で1回見に行こうって思って。京都移住計画の本を見てから行ったんです。そうしたら一気に仲良くなって。それで「移住しようと思ってるんですよ。」と言ったら、「どこですか?」「いま伏見に戻ろうかと思ってます」と。なぜかというともゝ山荘もあるしと思って。そうすると会わせたい人がいるといわれて会ったのが北澤さんです。

    北澤

    何で洛中を経験して、また伏見のもゝ山荘に戻ろうと思ったん?

    高本

    学生時代の原点に戻ろうと思って。最初の印象はオンボロアパートといったら悪いけど、まるでトキワ荘のような木造アパートならでは温かみや住人が面白くて。いろんな個性溢れる学生の住人がいた思い出の場所でもありましたので。

    北澤

    大家さんのお母さんが本当にキュートだったって話をしてはりますもんね。

    高本

    その方も元通りいらっしゃって、大正生まれのお母さまはもう亡くなってました。その学生時代に、毎月隣の母屋へ月決めの家賃を払いに行くじゃないですか。そうしたら地震計の波形みたいな感じで、「受・・領・・し・・ま・・し・・た」って丁寧に書いてくれはるんです。それを8分ぐらいずっと待つ時間が禅的なマインドフルネス溢れる感じで最高でした。学生当時を振り返ってみると、綺麗な西陣のワンルームのマンションより、もゝ山荘のほうが俄然面白いと思ったんですよ。

    昆布屋を継ぐ意思はなかった

    北澤

    築300年弱ぐらいの枩邑(まつむら)ってゲストハウスのはしりみたいな町宿の横にシークレットバーがあるんですよ。そこが伏見らしいっていったら一番伏見らしいかな。ここは昔、都でもあったけど、ただの下町やないんやでって建物があるんですよね。そこのご主人が町宿を経営しながら自分でもアートディレクターをやってはる人で、新しい形でやりたいと10年前から始めてはって、ちょうど僕らがそこでいろんなイベントをやってました。僕はこの昆布屋という仕事は四代目なんですけど、それが本当は嫌で嫌で、ちょうど高本さんが伏見にいた頃には、嫌や言いながら結婚もしたし子どももできたし、戻らなあかんでみたいな感じで、いっぺん落ち着いたかに見えた。でも自分の中で何か仕事をやりたいという想いが残りつつ、30歳すぎぐらいに家を出たんですよ。

    もう戻らないって半分勘当みたいな形で、僕も戻らへんからと弟に昆布屋は継がせて出たんですよ。その時はもうバブルは終わってたんやけど、地元の商店街はすごいまだまだ元気があって、僕で老舗の昆布屋は四代目なんで、にぎやかな商店街のなかでは昆布屋はうちしかないので独占企業です。ほんなら任せといたら問題なくやっていけるやろと思っていたら、12年後に戻ることになった。

    戻るちょっとぐらい前から家業の昆布屋も商店街も時代の流れで状況は変わって来てるなと、、それでもそう言いながらも戻らなかったんやけど、親父が病気になり、弟が病気になることが続き、ほんで俺戻るしかないみたいな状況になった。「親父、勘当といてええのか?」「仕方ない」となった。僕は当時2000年くらいからいろんな仕事を転々としながらウェブデザインをしてました。

    当時森元首相のIT企業推進かなんかで、あちこちのホームページ作ってましたね。ちょうどにそのときに地元の商店街からホームページを作ってほしいって話があったので作ったんですね。それで商店街の紹介の話だけではオモロないから、ちょうど周りの伏見の街が面白いからってことで、僕もその時Webをやりながら煮詰まったら近所を歩いてたんですよ。「あ、伏見はこんな面白いところがあるんや」ってことを改めて気づかされた。

    それは商店街の紹介だけじゃなくて、伏見がどんな街かをストーリー仕立てで作ったら、居並ぶ強豪を抑えて。京都市のホームページコンテストで、僕みたいな素人が大賞獲ったんですよ。そんなことがありながら、伏見に興味を持ち始めた何年かあとに戻ってこざるを得なくなり、僕が戻ってきた途端、親父がボコンと亡くなり、弟も入院してるし、ほなもう跡継がなきゃいけないとなり、「今度ばかりはもう覚悟決めてやるしかない」って形でやりだした。

    もう自分の昆布屋も含め商店街も昔のやり方が出来なくになってるから、逆に僕としたらいろんなやり方が出来るんで。

    望月

    そうですね。流行っていればそのままでいいですもんね。

    北澤

    流行っているときは、このレールに乗っていればええがなって感じ。それが嫌やったけど、もう今は景気も良くないし、昆布屋もどうなるかわからへんから、やれる事をとりあえず好きにやったらってことで、いろいろやってる中で商店街を盛り上げるために京都芸術大学(当時京都造形大学)と商店街のアートプロジェクトをしようという企画が始まった。7つの商店街が伏見桃山中書島にあるんですけど、7つの商店街各自でアートをテーマに学生を使って何かしなさいってお題が下りた。僕は昔から映画が好きやったから、所属している商店街で映画を撮ろうと目論みながら動かしてたんですよ。

    二人は戻った伏見で出会った

    北澤

    高本さんに出会ったのはそのプロジェクトの3年目なんですよ。ちょうど僕はいろんな人をいろいろ巻き込んで動かしてたときに、もうそのときはトラブルもいっぱい抱えてて、資金が無い中で、ロケで使う場所や部屋があらへんとかいろいろあった。配役が決まらんなかで、たまたま高本さんに会って、高本さん出ませんか?って感じ。

    高本

    いやいや、だいぶ話が違う。(笑)

    北澤

    違います? (笑)

    高本

    会った日にかっこいい蔵みたいなバー(町宿枩邑)で、その映画の話をしたんです。それで中書島で映画を作るからよかったら軽めに遊びに来てみたら〜って感じでした。

    北澤

    そんなんやった?(笑)

    高本

    ちょっと覗きにきたらって言われました。軽めに覗きに来たらって感じで、行けたら行きますわで行ったら、もう企画にがっつり入れられて。もう逃げられない状態だった。

    北澤

    高本さんだから多分見てられなかったと思うんです。学生と地元の素人のおっさんがやっている企画だったので、作成に至るまでのいろんな前準備がちゃんと出来てないから、動かないですよね。

    高本

    熱さは素晴らしくて、悪い意味でじゃなくて、走り始めたばかりで結構まだふわっとしてましたね。

    北澤

    京阪電鉄を巻き込まないといけないプレゼンを作らなあかんときに、学生と僕らだと作られへんかったんですよ。

    高本

    それをアイデアのフレームで1枚の紙にまとめてね。

    北澤

    そうするとすごく整理されたんですよ。これでいこうとなり、僕らは大感謝ですよ。僕らは予算ほとんどない中で、結果的に京阪に案が通ったんですよ。駅からつながっている商店街やからそれは仕方ないってことで。もういろんなところからそこまでこぎつけて。高本さんが最後に仕上げてくれた。「獲った!よしヤッタで」と。

    高本

    それはもうヨッシャーとなって、いつの間にか映画にも出演し、ロケ場所の提供もし、がっつり入りました。

    北澤

    今思うと、あのいろんな人を巻き込んだ熱狂はすごかったね(笑)

    高本

    楽しかった。あれがあったから伏見にまた住みたいなと思ったんですよ。

    映画プロジェクト

    北澤

    そのとき僕らがやっていたいろんなアートプロジェクトが転がり始めていたんですよ。伏見ってことから発信したかった。伏見は京都やないねん。伏見は京都のダウンタウン、スウィートホーム中書島みたいな感じやね。僕が生まれ育った場所をもっと知ってもらいたい。それが商売にも繋がるし、伏見ブランドを作っていこうとどんどん思うようになって。

    望月

    高本さんと同じで、北澤さんも伏見に戻ってきた後に再発見があったんですね?

    北澤

    そうそう。それは全くそうですね。まだまだ面白いものにみんな気付いていないだけやと。意外と地元の人程気付いてない。それをいろいろやってるうちに、いろんな人を巻き込むんじゃないけど協力者が出て来たんですよね。その中であったのが造形大との映画企画です。

    望月

    なんで協力をお願いした学生は造形だったんですか?

    北澤

    それはあちこち芸大を商店街の仲間と何校か見に行って、造形が一番街作りに対して意欲があったんですよ。それで造形大学にしようって。予算は少ないけどアイデアはあったから、好きなことやったろって、僕らだけ勝手に映画企画を始めた。映画もお金足りひんから当時クラウドファンディングはじめて。

    普通みんな商売の片手間でやってはんねんけど、僕らは商売の片手間というより、やり始めたら面白くなって熱が入って仕事休んでまでやってた。アホですわ(笑)それぐらいやっているといろんな人が協力したるわと、地元の商店街だけでなく、それ以外の周りの人が面白いって集まってきてくれたんですよ。

    高本

    僕もちょうど偶然ご縁があって、前にロゼッタストーンって会社で働いていたときに、京都造形大に製品導入してもらったんですよ。そのときのお世話になった杉浦幸子先生(現武蔵野美術大学教授)と映画に出ていた奈佐さんが同僚同士で。それはあとからわかったんですけどね。

    ご縁が続いていて、その奈佐さんは今長岡スイミングスクールの経営者で、僕はそこのお手伝いをしていたり。点が全部線になって続いているんですよね。そんな僕は最初の社会人のときに横浜で社会人生活を始めたんだけど、初日から辞めたかった。

    ほんとにいろいろあったんですけど、サントリーに入って配属されたのが黄金町だったんですよ。まだ赤線があるときで。家のマンションの裏が赤線ってすごいと思わない?

    北澤

    ここ中書島も赤線だった。

    高本

    ここは遊郭やったからね。

    北澤

    昔は僕らが子どものころは、夜の飲み屋街やったからヤクザの事務所がいっぱいあった。

    平林

    中書島にははじめて降りましたよ。

    高本

    でしょ?

    平林

    電車では何度も通り過ぎているんだけど。

    高本

    そうそう。

    北澤

    周りのネイバーの人が言うのは、中書島へ渡る橋を渡ったらあかんと。(笑)
    蓬莱橋から向こうは行ったらあかんでって子どものときに教えられたと後から知った(笑)

    高本

    大人の世界やから。

    望月

    なるほど。

    高本

    横浜は黄金町で辞めたいと思って、毎日大岡川のたもとからランドマークタワーを見ては辞めたいなって思っているときに、「何でこんな街に俺住んでんねん」と。

    北澤

    「全然オシャレちゃうやん」みたいな感じやろ?

    高本

    オシャレちゃうし、もう毎晩「飯行くぞ」って仕事なんですよ。毎日深夜まで飲み仕事があってね。「辞めたいな」って黄金町から出たいと思っているときに救われたのが、映画「私立探偵濱マイク」だった。うちの真裏がその舞台となった映画館「横濱日劇」だったんですよ。濱マイクのおかげで黄金町のことや、黄金町のひとたちが好きになれるようなったんです。その永瀬正敏の映画を作った林海象監督の教え子たちが、伏見の映画を手伝っていた。これは僕にとっては本当に奇跡的なことでした。

    北澤

    商店街の話に戻ると、ここのランドマークはどこかなと思ったら銭湯があるでしょ。あそこがここのランドマークやと思ったから、あそこを何とかしたいなと思い、まずそこで今までいろんな企画を持ち込んだけど、みんなあかんて撥ね付けられてたんが、先の造形とのアートプロジェクト企画で商店街の看板だったら脱衣所で映画の上映会してもええよって話になって。

    そこで昔の中書島でロケをした坂本龍馬を撮った阪妻主演の映画のフィルムが残っていて。それで映画の上映会の第一回をそこでやったと。1回目のオープニングに林海象監督から、新地映画祭を応援しますってメッセージをいただいたんですよ。

    試行錯誤があって今がある

    高本

    めちゃめちゃ古いくせに新しいモノ好きな二律背反が、新しいモノを生み出す街やから。川港の街やからいろんな人が行き交うし、自分も行くんですよね。何の因果かいま多拠点居住がしたかったこともあった。6年前に7拠点で同時に住みたいと思ってたんですよ。そのときに出会ったのが、いまADDressの代表である佐別当隆志さんで。当時からシェアエコノミーや、多拠点での自由な働き方についてお話していた原点がありました。何の因果か自分が当時住んでいた京都の伏見のもゝ山荘を一緒にリノベーションして、ADDressの拠点第一号にしたのが、2019年8月20日なんですよ。

    本当に楽しくて、伏見で何かコト起こしが出来たことと、伏見の多様性を日本の多様性に当てはめていったときに、伏見からいろんな日本のところに住めたらいいなと思って。日本中の面白い人と繋がって伏見に来てもらいたい。だから今はそのADDressという多拠点居住サービスのある事業部の責任者もやらせてもらっているんですが、それと同時に伏見で自分でもコト起こしがしたいと思って、ちょっとちっちゃい事業体を作ってぼちぼちと動き始めようと思ってます。その流れでも映画もまた北澤さんに作っていただきたいという中、その後北澤さんも激動の事件があって。

    北澤

    本当ですよ。

    高本

    今まで商売やってきた場所から立ち退かないといけなくなって。

    北澤

    おじいちゃんの代、親父の代、僕の代までずっと洛南の台所と言われる納屋町という商店街で商売やってきて、納屋町の昆布屋と言ったら地域の人はみなさん知ってるぐらいの店やったんです。だけどもう出なしゃあない状況になった。

    伏見も観光化の波が来てホテルにしたいと、うちらは商店街の中でもちっちゃい店が集まってくるマーケットみたいなところで、共同で組合を作って借りてたんですよ。みなさん高齢化もあって売りたい人が多かったんで、もう売らなしゃあないと。でも売るって言ったって、せいぜい二坪ぐらいで、昔の商店街で2坪の店を結講道路の前にバーンとモノを出して、5坪にして商売してたんで、売れる土地は二坪しかない。実際に二坪しかないから、そんなに金も入って入ってこないじゃないですか。

    どないしよ?!と思ってたんですが、僕が帰って時に伏見は、龍馬ブームの後に日本酒ブームが来初めてて、伏見の酒蔵が蔵開きを初めて、人が集まりつつあったんですよ。

    僕は蔵開きに昆布屋として出店させてもらってた。そしたら日本酒のあてで昆布がよう売れるんですよ。今度は今の店の場所で月1回だけ、向かいの酒屋さんとコラボして昆布と日本酒の立ち飲みの会を開いた。、商店街の活性化にもなると。FacebookなどSNSが日本で流行りだした頃にちょうど重なったこともあって、ダッと広がったんですよ。

    どんどん次から次へと人が来るようになって、嫁はんに最初料理やらしたんですけど、嫁はんが「もうこんなん大変!やってられへん」って。その時はまだ嫁は他の仕事してたんで裁ききれなくなった。僕らは「ほな誰がやってくれる」と探し、違う人に頼んだんですよ。

    その人もずっと頼めへんから、その人からまた違う人を探していくことになり、京都の中でも多拠点のいろんなことをやってる人らで、今回はこの人をゲストに料理をやってもらうって形を続けた。そうすると、いつの間にかいろんな土地からいろんな料理を中心に、いろんな人がまた集まってくる。それはいつの間にか溢れ上がってきた。それを3年間休まず続けた。一か八か場所を変えなあかんのやったら、この流れを利用して、僕ら飲食なんてやったことない素人やねんけど、絶対これから伏見も日本酒の街になっていくやろうってこともあり、そんな店をやってみよう!となった。

    その時も相当に悩んだ。やっぱり昆布屋として同じ場所で商売を全うしたいおふくろと、いやもう今変えな生き延びる術はないでって思う僕とで、親子の縁を切る寸前まで真正面からぶつかってて、疲れ果ててた。んなときにまた高本さんと会って・・・高本さんの話を聞くと元気出るんですよね。

    高本

    僕もあのときは伺いながら自分自身も元気をもらって。僕自身も今はだいぶ落ち着きましたけど、そのときグラグラしてたし。どうしようかなってひとごとではなかった。だからこの店もそうなんですけど、まさにギリギリまで粘って粘って出した答えがものすごく良い場作りになった。

    北澤

    反響は狙った通りで、昆布と日本酒がはまって取材もすごく来てくれはったし、お客さんの反応も良かったんですよね。それから3年ぐらい経って、右肩上がりで、まだまだこれからや!と思ってたら今回のコロナでズダーンとなって。また新たな転換期やなって。ここでまたこうやって高本さんと話をするのも面白い。

    エイリアンでいたい気持ち

    高本

    そうですね。だからまず言ったら伏見で何かしたいと思ってたんですけど、そのモデルをずっと北澤さんがスバっと見せてくれてた。しかもありえないほどのクオリティを以て。

    北澤

    想いは一緒なんですよ。伏見に外から人を呼び込むのと同時に、今度僕らが発信せなあかん。伏見ってこういうところなんですよって。僕が一回悔しい想いをしたんは、伏見や中書島って誰でも知っていると思ったんです。あるとき大阪の商店街に昆布を売りに行ったとき、「伏見から来てます」「伏見どこ?」と言われて。「えー、知らんねや」って感じでね。

    そういうのが腹立つなって。降りたことないって人には、降りてこいや!って感じでね(笑)降りて来てもらうには、どう仕掛けたらどうやってくれるかをいろいろ伏見らしくね。京都なんやけど、京都と違う伏見らしさ。

    高本

    今でも思っているのは、最初は寺田屋とか伏見稲荷とか、観光にばっかり目がいってたけど、エイリアンとしてここに入ったときに、おもろいものがめちゃめちゃあった。街中の演歌のポスターもそうですし、僕は毎朝5キロぐらい、この辺も含めて伏見中を歩いてるんですけど、それをフェイスブックにあげると、地元のみんながこれ俺知り合いやねんとか、なんでローリン・ヒルがシャッターに梅の花と描かれてんねんとかね。それをアップしたら、描いたの僕友だちなんですけどって。その日のうちにやっているバーに連れて行ってもらえるみたいなことが日々起きていて。

    僕はこの街ではエイリアンでいたいんですよ。新参者がおこがましいので同化なんてできないし。ただここの一住人としても居る日は毎日何かを見ておきたいし、北澤さんの仕掛けで、これから伏見と外をつなげてくれるような映画をいつか作っていただきたいと思ってるんですけど、その時はまた必ずご一緒したい、それは伏見に住んだあと、今やりたいことのひとつです。そして、元区長の馬屋原さんはじめ北澤さんやみなさんと夢見ていた、川港である伏見港を再興する夢もこの秋から国交省「みなとオアシス」登録に向けた京都府・京都市協働の動きが始動するようで、伏見の元気な動きがますます加速していくと思っています。

    取材のあと

    音声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。

    Profile

    北澤雅彦

    1962年京都伏見の老舗昆布屋に生まれるが、決まったレールの跡取りを逃れる為に家出を繰り返すが父の死を機に、家業を継ぐ事を決意。外に出た事で伏見の歴史に興味を持ち、エコミュージアムに基づいた伏見まるごと博物館に参加、伏見出身の染色史家故吉岡幸雄氏と共に辨天祭篝火復興。京都造形大(現京都芸大)との商店街アートプロジェクトにて地元舞台に地元民で映画を撮るなど、伏見から発信をし続ける。家業の昆布屋は、日本有数の酒処伏見である事から日本酒と昆布の相性の良さを活かした活動を行い、2016年昆布料理と日本酒の店「おこぶ北淸」として新たなスタートを切る。
    https://okobu.com/

    高本昌宏

    1971年岡山生まれ。同志社大学経済学部卒。サントリー、Appleを経て米国IT企業時代、日本文化の可能性を再発見し、東京と京都の二拠点中心に会津や知床など多拠点で活動。京伏見を世界No.1のIDEA CITYにすべく取り組む中、ADDressの世界観に共感し参画。戦略拠点開発SWATチームを立ち上げ、全国創生を目指す。2020年、東京から京伏見に移住。地域企業や行政の新規事業開発支援を行う企画室「安土桃山デザインズ」を2020年秋から始動。