自分の環境を変えてみたまえとあと

江島健太郎
ソフトウェア開発者

数年で環境を変える渡り鳥のような自分が言うのもなんですが、何かあったとき直感で動くことって大事で、その瞬間は「大変」バイアスが掛かりまくる場合が多いんですが、後から考えてみると良かったのではと思えるような瞬間があります。今回はそんな環境を変えてみる話とSNSのリテラシーについて考えたインタビューとなりました。

Profile

江島健太郎
香川県生まれ。6歳よりプログラミングを始める。京都大学工学部卒業。外資系ソフトウェア企業を経て、日本のスタートアップ企業(現在は東証一部上場)の米国進出のためシリコンバレーへ渡米。様々なサービスを開発し、iPhoneアプリ総合ランキングで米国トップ5入り、3年で3,000万ユーザーを達成。その後、ニューヨークに拠点を移して創業者兼CTOとして起業。現在は帰国し、米Quora社のエバンジェリストとして日本進出を担当。
Quora:https://jp.quora.com/profile/Kenn-Ejima
Twitter:twitter.com/kenn

Index

努力を信じない

江島

僕は努力を信じてないんです。だからガッツがあれば何か状況を変えられるみたいなことを信じてない。何かを変えたいと思った時には、自分を変えようと努力するんじゃなくて、環境を変えた方がいいと思っています。

分かります。そうです。

江島

自分はたとえばチェスの駒だと思って、とりあえず違うところへ置いてみるんです。

本当に変わりますよね。同じ環境で変わろうなんて無理なんですよね。

江島

今自分のいる場所が、自分にとってすごくストレスを感じる環境なんだったら、そこから逃げることも本気で考えてみたほうがいい。それに負けている自分が弱いっていう感覚は持たないほうが良くて、人間はみんな弱い。だからその環境でダメージを受けているなら環境を変える決断をどっかのタイミングで「えいや!」とやってしまう。そうすると、今までの悩みはなんだったんだってぐらいどっかに行ったりするんで。

平林

嫌だと思ったらすぐ辞めるべきですよ。

江島

そうですよ。だから最近の若い子って就職してもすぐ辞めるというじゃないですか。僕は良いことだと思ってるんですよね。今までは我慢しちゃってたから、それがよっぽど不自然だと思ってて。

平林

昔の考え方みたいですよね。忍耐とかって。

江島

そうそう。3年続けてなんぼみたいなね。

僕は3年以上いた会社ないんですよ(笑)。

世界で最も危険なのは正義を叫んでるやつだ

いま自分にある問題意識の中で、SNSをはじめソーシャルやネットを含め、謎の同調圧力、いわゆる”俺の正義”は”お前らの正義だ”みたいな風潮があるのが嫌いで、そういう話も中心にしながら、今やってらっしゃるお仕事の話につながればと。

江島

なるほど。それは僕自身の問題意識としてもあって、社会の同調圧力もそうなんですけど、今のSNSがもたらしている社会の害悪みたいなものはかなりあると思っているんですね。

要は個人が情報を発信しやすくなったのは良い面ではあるんですが、それよりも人を扇動する道具みたいになって完全にフォロー数のパワーゲームになってるじゃないですか。例えばフォロワーが100万人いるホリエモンみたいな有名人が何かを言うと、信者がいっぱい沸いてくるわけですよ。それに対して、Twitter始めたばっかりでフォロワーはまだ10人くらいの公衆衛生の専門家が、コロナはそうじゃなくてこういうもんなんだと反論しても、袋叩きになって終わりじゃないですか。「何を言ってるんだ」「お前は現実がわかってない」とか。

数で担保されているんですよね。

江島

そうなんですよね。それが変わらない構造になっていて、今から10人しかいない専門家が頑張っても100万人を逆転なんてできない。要するに3.11の頃にツイッターが大ブレイクし始め、そこで一気に伸びた人からのランキングの入れ替わりって実はもう起きていないと思うんですよね。結局それがもう固定化された権力みたいになっていて、後から入ってきた人の意見が重用されない。

たまたまTwitterを早く始め、たまたま早くバズって、たまたま早くフォロワーが多くなった人の発言力が固定化されてしまった世の中みたいな。新陳代謝が起きてないんですよ。

そうですよね。結局翻して俯瞰して考えてみると、日本社会そのものみたいな。

江島

そうなんですよね。

それが人が変わっただけってスタンスですよね。だから結局ずっと同じ方法を引きずっている日本はあるとは思ってます。でも変にマウントをとったり、何の情報もない情報商材を高値で売ることもあるじゃないですか。

数の論理で民主主義とか、正義ぶるとか、そういうのが日本はやりやすい。それをフォロワーの数が大きい人が言うことで、より増長される仕組みが成り立っている。結局それって戦争が始まる前の日本と同じ構造ですよね。

江島

一緒です。実はいまBanksyのTシャツを着てるんですけど、Banksyも似たようなことを言ってて、「世界で最も危険なのは正義を叫んでるやつだ」と。

(注:https://www.goodreads.com/quotes/68636-there-s-nothing-more-dangerous-than-someone-who-wants-to-make – 直訳すると「世界を良くしようとしている人物ほど危険な存在はない」)

本当にそうですよね。

江島

Banksyも資本主義とか民主主義に対してすごく懐疑的なものの見方をしています。そのやり方を間違えたらすごく危険なんだということを、作品を通じてずっと言ってるんです。

僕も若かったときは「あの人間違っている!」と思ってたんですよ。20代〜30代前のTwitter始まったころに思ってたんですけど、とあるタイミングでよくよく考えたら、みんな自分が正義だと思っているので、結局それを「悪だ!」とひっくり返そうと思っても無理やし、そこに能力かけるなら、全員正義を言ってると捉えたほうが楽なことに気づいた。

江島

ぶつかる人とは絶対折り合うことはないですからね。だから問題は正義を叫んでる人が世の中にいっぱいいることなんですよね。みんなそれに影響を受けるし、自分もこれをやらねばという義務感に駆られたりする。先日トランプのディベートがありましたが酷かったですよね。面白いのがイギリスがEU離脱する「ブレグジット」や、トランプが台頭してきたタイミングって完全にソーシャルネットワークの普及と連動しているんですよ。それまではわりと中道の人たちが選挙で選ばれる傾向があったんです。最近になって、だんだん両端の人が脚光を浴びるようになった。

結局ソーシャルの一番の功罪は、見なくてもいいものが見えてきたのが一番辛いんですよ。他人の人生とか。他人のキラキラした人生が見えてくると、妬みが生まれる。自分がみじめに思えてくる。しまいには、そのことに怒りまで覚えるようになる。実はネット上のキラキラした人生なんて飾り立てられたフィクションなんだけど、どうしても真に受けてしまうんですよね。

こうして、自分の妄想の中で勝手に大きく育った怨恨に振り回され、極端に走る。極端なものがたぶん楽なんですよ。あいつらが悪い、という敵を作ってくれてわかりやすいし、手近な答えをくれるから。そういう構図に世界中が陥っていると思うんです。

拡がっていくはずの世界が閉じた世界へ向かう矛盾

江島

ソーシャルメディアの特性なんですが、ビジネスからすると視聴率の世界と一緒なんです。つまりたくさんユーザーが戻ってきてくれるコンテンツはいいコンテンツなわけじゃないですか。そうするとその人に心地のいいものを与えるように、アルゴリズムが最適化されたほうがビジネスは儲かるわけです。そうすると自分の意見に近いものしかだんだん耳に入ってこなくなるんですよ。

Twitterのフィードを眺めても、嫌だと思ったやつがだんだん外され、自分の意見に近い人ばかりが集まってくる状態になる。これがフィルターバブルです。ほかにもエコーチェンバーと言ったりするんですが、自分の声が跳ね返ってくるんですよ。おなじ意見を言ってる人で密室(チェンバー)の中に閉じこもっている状態になっているんですよね。

TwitterよりFacebookが顕著ですよね。Twitterを避けてFacebookしかやらない中年が多い。

江島

そうなんですよね。あれはもうさらに狭い世界で、自分の半径50メートルの人とお付き合いするようなプラットフォームだから、変化を拒んでいる感じですよね。新しいものを受け付けない。どっちもが人を閉じ込める方向に作用していて、その結果が英語だと「Polarization」つまり二極化です。要するに右と左の極端な意見を持つようにだんだん人が吸い寄せられていってるんです。

その結果おきたことが今回のトランプでありブレグジットであり、この分断化していく世の中。だからかなりテクノロジーの進化と連動していると思うんです。Facebookの登場、Twitterの普及とね。

平林

その便利さやテクノロジーに対して、人が自分の意思がもうなくなっていて、人が付いていってないってことなんですか。ただ取り込まれちゃってるだけで、時間が経てば人が慣れてくるとか?

江島

違うんですよ。受動視聴ってあるじゃないですか。ただ、だらだらとテレビを見るだけみたいなこと。あれとソーシャルメディアも同じなんですよ。要するにその人がいいねをつけたりリツイートしたりすると、近いものを見せるようになるんですよ。それをAIが勝手に選んできて、その人が”いいね”しそうなものばっかり見せると、また明日も戻ってきてくれるじゃないですか。また明日もTwitter見ようとなるじゃないですか。

彼らは広告ビジネスなんで、そうすることによって、結局たくさんの人が毎日見る、視聴時間が長ければ長いほど、彼らは儲かる構造になってるんですよね。ビジネスのインセンティブがそこに最適化されるようになっている。だから本人の努力は関係なく、本当に今の自分が心地いいと思うものしか来なくなっちゃうんですよ。

それをぶち壊そうと思うと、もうTwitter見るのを止めるぐらいしかない。もしくは常に新しい人をフォローしまくるとかね。

平林

自分で積極的に入っていくしかない。

江島

そういうことですよね。かなり意識的に、自分の意見が偏っていってないか内省しないといけない。でも自覚するのは本当に難しいと思いますよ。

知識がないことは罪ではない

江島

知識がないことは罪ではないと思っていて、要するに知らないことってどこまで行っても無限にあるじゃないですか。だからそれよりも強い態度に出てしまうとか、喧嘩腰で話しかけるとかそういうもっと人格的な部分が大事だと思っています。ちゃんと人としてきちんと育っていれば、別に知識の不足自体はあまり問題にはならないと思ってます。実は世の中にそういう人はすごく多くて、要するにちゃんと育っているけど知識はない。でもそういう人が見るだけの人、サイレントマジョリティーになってるんですよ。

反論したいと思っても、それを口に出すのははばかられるから黙っているだけなので、表から見ると存在しない人みたいになっているんですが、実はそういう人が圧倒的に多くて、割と僕はどっちかというとそこは信頼しているんですよね。

平林

だから知識が無いならないで、そこから覚えればいいのかなと思うときがあって。

江島

そうそう。

平林

たとえば今話していてわからなければ、話が終わった後にはもうわかってる。そのときの受け止め方とか、モードというのかな。そういうものを検証すれば大丈夫なのかなって。

江島

そう思います。

余計なことを考えないことが幸せなのかもしれない

江島

僕は人を不幸にしてるものが何かってことをよく考えるんですけど、文明が発達して豊かになればなるほど自殺者って増えてると思いません?

平林

そうですね。

江島

発展途上国にはいないんですよ。

日本は逆に本当に多いですよね。

江島

いろいろと調べていくとエミール・デュルケームが「自殺論」という本を書いてるわけです。例えば戦争とか災害みたいなものが起きると、自殺はガクッと減る。これがどういう現象なんだろうって話をしていて、これ普遍的なんですよね。第二次世界大戦になると一気に自殺が減ったんですよ。

要するに国民全員がいきなり災害とかなんとか禍って呼ばれるものに放り込まれると、みんな平等に落ち込んで、余計なことを考える余裕がなくなるのがすごく大きい。マズローの欲求の5段階説が結局どんな構造になってるかというと、一番下は「生存欲求・生理的欲求」で、もう食わないと死ぬみたいな。2番目は「社会のセーフティーネット」みたいな話で、医療が受けられるかなど、ベーシックな生存の社会保障ですよね。それから上の3つは実は全部人間関係なんですよ。

仕事を認めてもらえるかとか、愛情を育めるかとか、最後は自己実現で、要するに自分の夢を叶えられるかなどになります。

平林

一番ぜいたくなものですよね。

江島

だから上3つは本当に人間の社会性から生まれてくるものなんですよね。さっきのSNSの話に戻るんですけど、昔だったら朝起きたらすぐ朝餉を作って、川へ洗濯に行って山へ柴刈りに行って、帰ってきたらまた昼飯食って、昼から田んぼを耕して夕方になったらまた晩ご飯作って、食べたら風呂を沸かしてもう寝る時間と、忙しくて余計なことを考える暇なんかなかったんです。

あっという間に一日が終わり、また次の日がやってくるみたいなルーチンがあったわけですけど、実はそれが幸福の条件だったと僕は思ってます。要するに今はもうボタンをポチっとしたら洗濯が回って、料理もピッとやったら電子レンジでチンと出てくるようになる。要するに暇な時間がめっちゃ増えたんです。

余計なことを考えて、人の人生を眺める余裕ができたんです。テレビやSNSをダラダラ見るのもそうなんですけど、人の人生をひたすら眺めているわけです。それが妬みみたいな感情を生み出した。「楽しそうな人生を送ってるな、それに比べて俺は」みたいな比較をするようになったんです。これが実は人類の不幸の源泉だと思っていて、僕は大きな根っこがあると思うんです。

人と比較するのは良くないと親が言うわりに、あの子は学校でこれぐらいやったのよみたいな話は普遍的にあるじゃないですか。

江島

矛盾してるよね。

だから「ねっ!」ってところなんですけど。難しいですよね。小さいころからそんな教育ができる聖人君子の親っていない気がして。逆に超お金持ちだったら比較するものがないので成立するかもしれない。

江島

でもどこまでいっても比較するものはあると思いますよ。自分と違うフィールドですごい活躍している人って、どこまで行ってもいるじゃないですか。そういうのはキリがない。

だからもっとSNSで不幸なのは、インターネットが普及してない時代だったら、中学で1番だった子が高校へ行ったら全然1番じゃなくて、ちょっと挫折するみたいな話があると思うんですけど、今はもう普及しているから、早々にあきらめるみたいな。

結局そこでは芽が出なかったかもしれないけど、ずっと楽しいから続けてれば、大学とか社会人になってから急に花開く場合もある。でも早々に辞めようってなったら、それはそれで悲しいですよね。そういう抑制効果もSNSとかインターネットって、ある部分ではあるなと。

江島

だからあれは子どもは使わないほうがいいと思いますよ。あまり良いことはないと思う。社会性を身に付ける意味でも、ちょっとエクストリームなものが多い。ただ身内で使うぐらいだったらいいんですけど、全部が見えるのはストレスが多いと思いますよ。

平林

江島さんのさっきからの反応を見てると、世の中に何らかの危機感を感じてるじゃないですか。それに関して危機感は持ちつつも、ちょっと人間側に期待をしているというか。

江島

そうですね。

平林

ありますよね。それは僕も感じてきたんだけど、なかなかそっちの見方をしてる人ってあまりいなくて、ただ単に恐怖だとか、やばいぞって人はいるんだけど、なんとなくあるものがあるんじゃないかなと思っていて。

見つめ直しすぎるのも、ダメなシステムなんだと思うんですけどね。

自分の環境を変えてみたまえとあと

江島

人間はなにかで忙しくしてる方がいいんですよ。貧乏暇なしと言いますけど、あれって僕は生きる知恵だと思っていて。僕は以前アメリカで仕事をしていたんですけど、いろいろあって日本に戻ってくる人生の転機があって、仕事が手に付かない時期があったので、思い立ってお遍路に行ったんですね。僕は出身が四国で、お遍路は四国で八十八カ所のお寺があるわけですけど、八十八番目の割と近くに住んでたんですよ。昔はまったくそういうのに興味もなかったんですけど、きっかけがあってお遍路をやったんです。

その道中で行きずりの、元からの親しい知り合いじゃない人のほうが、いろいろ重い話でもしやすくて、ヘビーにならずにサラッと喋ってしまえる。しゃべることが自分の心を軽くしてくれることにその時気づきました。他の人たちもなんか訳ありなんです。人生で何かが起きている人たちがお遍路は多いので、お互いのそういうことを話したりするのをずっと続けてるうちに、心が軽くなる経験をして、わりとそこから半年ぐらい何もしないで旅を続けて、ちょっとしたホステルとかゲストハウスを転々としてました。そこで出会った人としばらく話して、また次に行ってみたいな生活をしてたんですよ。その流れで僕はいまADDressをやってるんです。

本当に何が自分にとってプラスになるのかマイナスになるのかって、自分でもわかっていないことが多い。

平林

まだわかんないことばっかりだと思いますよ。分かった途端、わかってないことに思いっきり気がつくし。

江島

そうなんですよね。そういう転機があって、だからそれまでは「ずっとアメリカでやっていくぞ」って決意をして向こうに渡ったわけなので。それも夢破れて帰ってきて、じゃあこれからどうしようかって。

今の仕事との出会いは何だったのですか?

江島

自分の事業をやろうかなと思ってぼちぼち準備していた頃にQuoraと出会いました。僕はこのQuoraは新世代のSNSだと思ってるんです。僕自身以前からちょっと溜め続けている知識があって、その知識を別にどこにも活かせなかった。何のためにこんなことやってるんだろうなって思ったときに、このQuoraってQ&Aサイトの日本語版が出てきた。目指している世界とミッションは「世界中の知識を共有し、広め深めること」なんですよ。

だからWikipediaみたいな面があって、質問されたことに答えることによってインターネット上の知識が増えていく、みたいな思考なんですね。

平林

それはあらゆるジャンルですか?

江島

あらゆるジャンルです。もしかしたら、自分の知識もここに書いたらいいんじゃないかと思って、書くようになったのが始まりなんです。結局そこからめっちゃQuoraのヘビーユーザーになって、ある時点では日本のトップライターのひとりになったんですよ。その時に「お前そんなにやるんやったら、こんど日本進出をやるんだけど、この仕事をやらないか」と声がかかって。そういう縁でこの仕事するようになったんです。

元々アメリカでテクノロジー系の仕事をずっとやってきたんで、相性はいいだろうということで、話をしたら「じゃあ一緒にやろう」って感じになった。僕の位置づけとしては向こうの会社からこっちに逆駐在で派遣されているような形なんです。

平林

Quoraは世界各国に広がっていってる感じなんですか?

江島

実はローカルに拠点を置いてるのは日本とインド以外いないんですよ。日本がすごい重要視されているんです。インドは英語圏のひとつでもありQuoraは言語ベースなんですよね、国じゃなくて英語ってカテゴリーだとインドはすごく大きいんです。

結局縁で仕事をしている方の話はいいですね。

平林

結局縁以外ないのかなって気もするけどね。

伏見にもどったまえとあと / 北澤雅彦+高本昌宏

取材のあと

音声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。

[New]まえとあとのあと(新しい展開)遠藤諭×江島健太郎【後編】

突然はじまった対談【前編】 はいよいよ後編に突入します。さらに後編ではより本質に迫る話に入っていきます。ちょっと哲学にも近い話をお楽しみください。

エコに一番いいことは、人間がいないこと

ツイッターの炎上を根本的に探っていくと、ちゃんと文意が取れてないことが多いじゃないですか。

遠藤

そういうことが多いですよね。

あれは何でなんだろうな?って思います。

遠藤

それはもうネットに限らず人間は都合のいいところしか見ないわけですよ。そして理解しない。養老孟子さんの『バカの壁』という本がありましたが、結局、自分の頭にあるものしか理解しないということじゃないですか。

だから自分の頭の中にあるパターンで打ち返しているんであって、別に読み取ろうとしていないことは多い。

読み取る側が積極的に聞き取ろうとしているときもありますが。そうでない場合、相手の意見を変える方法はストーリーで伝えるしかないという意見があります。言葉で伝えてもダメなんです。褒めてもダメ、ケナしてもダメみたいな話と一緒で、SNSで考えを変えようとするなんて思ってはいけない。

SNSで意見を変えることなんて無理ですよね。やろうとしている人が多いけど無理ですよね。

遠藤

難しいですね。

遠藤さんは、ある地方ケーブル局の人が「報道はニュースを伝えることがゴールじゃないと。課題があってそれを解決するための方法だ」という話を聞いて、まさにそうだと感じたそうだ。課題を解決するための役割としての報道。遠藤さんは、ただし何でも課題解決論になっていくのもまた違うのではないかと言います。

江島

遠藤さんがおっしゃったように課題解決のための報道というのは、すごく重要なポイントですよね。

特にそのニュース(課題)が公衆の利益に直結しているような場合、煽ることが目的になっていることが感じられるメディアって良くないと思う。いまのこのコロナ禍ですごく目立ちますよね。

遠藤

煽るのと同じなんだけど、僕も編集側の人間なので読者が心地よく読めるものを作ろうと考えるんですよね。僕が編集していたパソコン雑誌は、どの製品を買うべきかとか、トラブル解決とか、まさに課題解決がメディアの基調としてあったわけですが。しかし、じゃあ課題って何なんだ? となると、何でも目的主義で行ってしまうとわからなくなる。人間が生きていること自身に目的があるのか? って凄いところまで行ってしまいますからね。すべてを合理的に解決して最適化していくと、最後は「人間はいらない」になっちゃいますよね。

そうですね。エコに一番いいのは、人間がいないことだってね。

遠藤

本当にそうなんですよ。だからむしろ無駄があって良いはずで、むしろ、それを皿回しみたいに永らえさせるゲームが人類のいとなみなんだと。

環境を守る活動はすごい矛盾を生じている活動ですよね。

遠藤

環境を守る活動も、そんなに立派なものではないと考えるべきだと思ってます。いちど自分たち人類をワガママでダメなむしろ悪であるというとらえ方をして、そこからその自分たちを永らえるゲームが環境を守る活動であるというくらいが僕はいいと思うんです。あまりいいものじゃない、どこか芸当のようなものだと考える。

環境だけでなく、人類の営みを持たせるためには、みんなハッピーじゃないと戦争になるし、医療やテクノロジーも前向きであるべきで、それには教育も重要、そうすることで大いなる無駄である自分たちの皿回しゲームをとにかく続けましょう! が正しい気がしていて、いま無駄なブロックづくりもやっているんだけど。

江島

急にブロックの話に戻ってきましたね(笑)。

遠藤

でもブロックづくりって、たとえば僕がいま死んだとしたら、遠藤さんは死ぬ間際はブロック遊びに興じていたと言われたら嫌ですよね。もしかしたら、ボケていたのかあいつは? と思われるじゃないですか。でも無駄教みたいな感じで、やっている。

江島

無駄は大事ですよね。

遠藤

無駄というのは、人類の皿回しゲームの個人スケール版みたいなところがある。わがまま勝手に自然をむさぼり食ってる人間の営みとそんなに違うものじゃない。あんまりこの種の話はキレイな話ととらえるべきではなくて、すごく傲慢で、まわりにも迷惑かけている。だから危なっかしい皿回しが一番イメージ的には近いかな。

かわいい生き物ばかりが増えている

江島

その辺のトピックを最近Clubhouseという音声SNSアプリのクラブサイエンスというコミニティを作って発信しているんですよ。毎回僕が出ているわけじゃないんですが、2月から1日も欠かさず毎日やっていて。その中でよく出る話題が環境とかSDGs、哲学と絡めてくると人類が生きていることが環境破壊であるというところにみんな行き着いてしまって。

だからさっきおっしゃったみたいに、じゃあ人間がいなくても別に困らないじゃんってところまで行っちゃうので、どこで線を引くかって話なんですけど。結局科学と哲学のクロスする領域でいうと人間中心主義というのがあって、人間は人間を生かすために、いろいろなことを考えてやっている。動物が大事と言っているのも、現実には人間から見てかわいい生き物ばっかり増えているんですよ。

遠藤

ネットのサイバーワールドでもそれに似たこと起きていますね。Facebookで、いまや顔写真は簡単に加工できるので、みんないい顔をアップロードしている。そこまでは良いんですよ。個人が自分の気に入った顔をアップロードしたい。そうじゃなくてfacebookのエンジンが、いい顔を優先して出すという話があります。

要するにSNSの表示アルゴリズムがTwitterもそうなってきているんですけど、アルゴリズムで出てくる情報を変えている。Facebookは、いろんなバイアスや逆に不適切なものに対処しなかったことが指摘されていますが、いい顔のポストを表示する。これって、実はすごいことじゃないですかね?

江島

ヤバいですね。

遠藤

だからタイムラインが韓流ドラマみたいになってる。かわいい動物だけが生存するみたいな話と同じ理屈で、適者生存じゃないけど、それがFacebookのアルゴリズムでもということですね。

数百から数千ともいわれる異なる目的のアルゴリズムが共存しているそうで、Facebook自身も容易に説明できないという話もありますが。

江島

そうですよね。機械に任せると自然とそういうバイアスが入ってきちゃうんですよね。人類がやっても同じで、典型的にはさらに一歩面白い話があって、北海道にいるキツネの顔が、だんだん丸くなっているんですよ。 https://www.businessinsider.jp/post-214241

遠藤・望月

えー。

江島

そのキツネは野生なんですよ。飼われているキツネではなくて、それが何でなのかはずっと謎だったんですが、最近の仮説としては、キツネが人間と接触をする場面は、基本的にキツネは害獣なんですよね。畑のものを荒らしたり家畜を襲ったりするので、いかつい顔をしているキツネは殺されるけど、かわいい顔してると可哀想だと思って殺さずに帰されるセレクションバイアスがかかって、山の中では顔の丸いかわいいキツネが野生でも増えている。

望月

クマとか猿もかわいい顔になるのかな?(笑)。

遠藤

生の人間のほうがコスプレとかメイド喫茶とかじゃなくても、アニメっぽくふるまう。そういう子が受けるから似せてくるとかありますよね。

女子大生がみんなほぼ一緒の様相なのも、そんなバイアスなんですかね?

遠藤

それは歳を取ってそう見えただけじゃない?

望月

(落ち込む)

江島

人間の場合はセレクションバイアスがかからない。なぜかというと死なないといけないから。だから遺伝的には圧力は掛からなくて、人間の場合は化粧で工夫する方向にいくんですが、人間以外の生き物は、わりと残酷に簡単に殺されるんで。たとえば蜘蛛って別に可愛くないじゃないですか。環境に必要な知識はあっても可愛くないから殺すんですよ。

その結果イルカみたいに人間にとって可愛いイメージな生き物ばかりどんどん守られていて、実は哺乳類の中で、人間にとっての有用性のある動物だけが、重量ベースで見ると8割を越えていて、それは基本的に家畜なんです。家畜が一番多くて、重量ベースで計算すると、いわゆるワイルドアニマルと言われている動物は、ほんのわずかしかいないんです。

遠藤

なるほど。

江島

そうなってきているんで、本当に人間中心主義なんです。だから環境のことや動物のことを言っているけど、人間は極めて自己中心的なことしか出来ていない。それと同じことがメタバースで本当に自分の妄想をすべて出せる場なわけだから、それがさらに先鋭化するわけですよ。望むものに満たされた世界。Facebookのアルゴリズムも自分が欲しいものが降ってくる世界なんですね。

だからどうせランダムに降ってくるポストだったら、見た目のいい女の子のポストが来たほうが見てて楽しいわけじゃないですか。それを機械がなんとなくそう学習しているんですよ。

確かにインスタは似たようなポストしか出てこない。

江島

そういう人間中心主義の世界なんです。

なぜ属性を貶されると腹が立つのか?

遠藤

ある人が言っていたのは、自分と同じような人、何らかの点で自分と共通点のある人のことしか人はそもそも耳を傾けないんだよと。自分と同じ職業だったりとか、自分と同じあることに関する考え方、「どこかの政党を支持している」でも何でもいいんです。何かの共通点を手がかりにして、それを耳を傾けるかどうかしている。それが朝日新聞の人もいれば、同じドラマが好きな人でもいいんだけど、何かの手がかりがある。

江島

アイデンティーってことですよね?

遠藤

バーチャル空間で私が躍っていた話に戻るんですかね? リアルの比重が少なくなってくるぶんアイデンティティーというもので判断するようになる。みんな見るものが決まっていてスコープが狭くなっているから。だから共通点をもとにするようになるというのは、「なるほどな」と思いました。

もちろん、人間はなにかを評価して判断しているわけで、それを提示していくのが編集者の仕事みたいなこともあるんですが。手がかりは、自分と共通点のある人間の発言だったり、やっていることしかみない。その共通点はなんでもいい。そこから先は、何の根拠もなくても信じる理由になるってすごくないですか。赤ちゃんとママが言葉は通じてなくても、同期して動くようになるみたいな。

江島

理屈じゃないものを受け入れてしまうスイッチがあるんですね。

遠藤

あるんじゃないですかね。

江島

確かに共感をもとにしたものばかりになりましたよね。いいねの時代というか。

遠藤

そうですね。評価経済的な話とか、みんなちょっと似ている。

江島

さっきの遠藤さんの話で、共通点を元に受け入れるかどうか決める話は昔からあって、民俗学者のレヴィストロースは「真正なる関係のある社会とは、要するに実際のリアルなコミュニケーションをしている未開の民族の社会だ」と言ったそうなんですけど、現代社会って想像で作られた国家とか共同体みたいなものがあるんですけど、実際には会ったこともない人となぜか連帯を感じるわけです。

それは要するに属性の束に人間が分解されていて、人種とか話す言語とか、出身どこだとか、要するにプロフィールに書くような属性がいっぱいあるわけですよ。それを束にしたものがアイデンティティーになっていると。

遠藤

自分のアイデンティティーとは、何かもっと自然発生なものじゃなくて記号ってこと?

江島

記号化されたものなんです。

遠藤

すごくヒットラー的な話になってきそうな。

江島

そうなんですよ。それを「非真正な社会」と言っていて、そういうものでしか繋がれなくなってしまったから、要するに統計の中の一個の点になっちゃったんですよ。

遠藤

それに関係してすごく感じるのわね。下手すると僕もそうなんだけど、自分がバカにされたよりは、自分の職業を馬鹿にされたほうが怒っちゃう。

江島

そうなんです。それです。日本人がバカにされたら怒るのと一緒です。

遠藤

おかしくないですか。僕は自分がバカだと言われても平気なんだけど、編集者はマスゴミと言われるとすごく腹立つ。編集者って「何とかだよね」と言われると、一応僕も編集者のアイデンティティーを持っているつもりなのでむかっとくる。特に職業はね。

江島

僕も一緒ですよ。日本人はこうだよねと決めつけられたら腹が立ちます。

あと親の悪口を言われたらムカッとしますよね。

遠藤

そうですね。

自分はいいけど

江島

自分じゃないんですよ。自分じゃない何かにね。

自分の真上にはアイデンティティーは置けない

遠藤さんは、アスキーメディアワークスの社内部署としてアスキー総研を立ち上げたときにオタクを64分類することを考えた。そのときに例えば擬人化についてだったり、「かわいい」や「萌え」についても考えたそうだ。そのとき遠藤さんの解釈は、「かわいい」はベクトルが伏角なのに対して、「萌え」は仰角だった。

遠藤

オタクを分類すると何か見えるんじゃないか思ってやっていたわけですが、そこでちょっと見えてきたのは、自尊心が自分の上にはなくて、自分が信奉する側のものの上にある。たとえば自分がガンダムがいいと思ったら、ガンダム側に自尊心があって、自分の上の自尊心は希薄になっている。それは萌えが仰角のベクトルというものとも関係すると思いますが。

その方が安心できるんですよね。というのは信奉するもののほうが権威だからです。自分も社会の one of themの存在であると10代になったら気がづきます。だから、もう自分よりも他のものの上に自尊心を置いたほうが安心して生きられるようなところがある。

それは、必ずしもオタクにおけるコンテンツ的な対象だけではなくて、企業でもなんでも宗教的になりうる。だって小さな自分よりも立派ですからね。そういうときに、それを否定されたら大変なことになってしまう。そんなふうに考えるとなんか深刻な話になってくるけど、実際にはもっと多層的だと思うんですよ。

むしろ、そこに早めに気付いてぐるぐるとアイデンティティーを回すような感じで自分とつきあっているみたいな人もいます。たとえば、ある大手チップメッーカーの日本法人の会長をやられた方がいるんですが、少し前にワイナリーを持ってワインを作りはじめたという話を聞いたんですね。ところが、ワインを作るときに葡萄を踏まないといけないじゃないですか。だから、その後の話があって秋葉原のメイドカフェのメイドさんたちに踏んでもらったワインを出荷している。それいきなり、すごい価値が出ますよね。

一同

遠藤

いずれにしろアイデンティティーは自分の真上には置けないですよね。よっぽど聖人じゃないかぎり。

アイデンティティーをどこかに預けるって発想が面白いですね。

遠藤

アイデンティティー銀行みたいな。自分の自尊心を決めるアイデンティティーが自分の好きなもので決められるようになってきたからですね。可能っぽいですよね。

アイデンティティーを預けているって発想はすごい面白いです。

遠藤

だから、僕だってアイデンティティーは真上にないですよ。そんなに自己中心的な奴だったらかえって嫌でしょう?

あるのか聞かれたら、ああ確かにないなって思います。

遠藤

そもそも、そういうものが1個だけ明確にあるというものじゃない。でも、生存していくには自尊心もアイデンティティーもないと困るから。だからゲームと考えるのがいいんですよ。

江島

ゲームとして考えたとき、ヒットラーの世界観とつながるところがあると思っていて、

遠藤

そうなんだ?

江島

民族浄化みたいなものって、要するに発展させる上では優秀なものが生き残るべきであるって発想から一直線につながるように思っていて。環境破壊を考えたら人口ってそんなに爆発的に増え続けないほうがいいって考え方があるわけじゃないですか。

その中で人間がハッピーにやっていくためには、ある程度の規模でコンパクトに永続的にやっていくほうがいいと。要は人間増え続けたらいつかは資源がなくなる。

そう考えたときにじゃあ誰が残るべきなのかって話に切り替わっていくと優生思想みたいなものにつながり、戦争が起きてと、今まで起きたことの繰り返しになっていて。

遠藤

いまは戦争をやったら滅びるよねってちゃんと理解が進むことが大事ですね。

でも面白い部分であるのは、優生すぎてもダメなんだなというのはすごい思うんです。ちょっと例が違いますけど、最近パリサンジェルマンにメッシが入って、エムバペとネイマールの3人で最強のスリートップみたいな感じになったわけです。

でもベルギーの普通のチームに1ー1で引き分けてしまう試合をするわけですよ。すべて駒を揃えて全部優秀でいても勝てないときは勝てないのが、人間の本質的なところだなと思っていて。

優秀なものが全部じゃなくて、ある程度さまざまミックスされているものがないと、結局勝てない。

遠藤

全員FWだったら負けちゃうもんね。

江島

人間が恣意的に選んだものが強いとは限らない。それはそう思いますね。人間のロジックや欲望ってすごく単純だから、そっちへ行っちゃうんですよね。かわいい動物のところと同じなんです。意識していようがしまいが、何でかそういう方向に行っちゃうんです。それが課題としては特に感じるところですね。

最後に

11/29(月)に今回対談した江島さんと遠藤さん、そして吉田尚記さん(ニッポン放送)の3人のオンラインイベントをおこないます。

Basic Insight Vol.5「フィルターバブルとエコーチェンバー」

Edit & Text:Daisaku Mochizuki
Photo:Katsumi Hirabayashi