デジタル死を考えるまえとあと / 遠藤諭

  • 遠藤諭株式会社角川アスキー総合研究所主席研究員

写真:平林克己
聞き手/編集/執筆:望月大作

目次

  • 想像する未来はあてにならない
  • バーチャルへの関心
  • デジタルで死んだ
  • 人間とは何かを考えると
  • 記憶の超解像的再生
  • 取材のあと
  • 想像する未来はあてにならない

    遠藤諭(株式会社角川アスキー総合研究所主席研究員)

    Twitterは、ネットが世の中で注目されはじめたときに「こうなる」といろんな人が言った未来とはまったく違った形で広がりましたよね。SNSって、いまや産業や社会を動かすパワーを持ってきているわけです。ところが、インターネットが広がった25年ほど前に、ソーシャルメディアがここまでくるとは誰も予測していなかったといっていいと思います。

    米国クリントン政権がブチあげた情報スーパーハイウェイでも、ニューエコノミーなどといって「情報技術の進歩によって景気変動がなくなる」なんて意見もありました。しかし、そんなことには少なくとも現状なっていない。1990年代前半にネットに関して予測されたことって、ECやオフショアなどをのぞくとあまり当たっていない。ソーシャルなものって、パソコン通信というヒントになるものがあったのに予想されていなかった。むしろ1980年に書かれたトフラーの『第三の波』のほうが近いことを言っているよね。生産消費者とかメディアの非マス化とかですね。

    ソーシャルメディアがいかに凄いかは、とくにTwitterに関しては大統領が使うんですよ。オバマ前大統領からですが、あまりにアッケラカンと行われていて現実を受け入れるしかないような状態になっている。

    しかし、よく考えれば《大統領が国民に対して発言する》とか、《メディアによって世論が形成される》というのは、ネットに道具が変わっただけでいまに始まったことではありません。興味深いのは、そのメディアの担い手がTwitterやFacebookといったネット企業になったことで、それがプログラムのコー ドによってそれが動いていることですね。

    Twitterが、トランプ大統領のツイートを《注意喚起》の対象にしましたが、そのことではなくてメディア自体が自動的に動いている。ちょっとしたFacebookのプログラムのコードの違いで、選挙結果に影響する可能性があるわけですよ。しかも、英国の国民投票にFacbookが影響したんじゃないかとBBCが取材したんですが、Facebookは「自分たちでもプログラムがどう作用するか分からない」とコメントしていました。たぶん半分以上本当だと思います。生の人間によるポストをコードが処理して世論ができあがっていく時代がきている。

    バーチャルへの関心

    たったいまデジタルに関する動きでいちばん注目すべきことのひとつは、我々がいま住んでいるのは重力のある3D空間ですが、それをそっくり再現したバーチャル空間を作る動きが急速に広がりはじめていることです。いままでも、VR(バーチャルリアリティ)や3Dゲームの中にそうしたものはあったけど、《現実の世界と結びついたバーチャル世界》が、これから数年のうちにどんどん広がっていきそうです。

    政府も一生懸命言っている《DX》(デジタルトランスフォーメーション)の中でキーワードとなっている概念の1つが《デジタルツイン》です。文字どおり、現実世界にあるモノのバーチャルな“双子”ですね。

    DXというのは、いままでの《IT導入》というレベルではなく、企業を遺伝子レベルからデジタルにしようというものです。そのとき、自分たちが企業活動であつかうリソースとして、製品やその部品や工場のライン、さらには街や道路なんかもあるでしょう。それらすべてをデジタルで現実とのペアにしておきましょうというものです。

    たとえば、国土交通省が《都市3Dマップ》と呼べるものを整備しようとしています。いままでの地図は平面の道路や河川や建物も占有している面積でしか表現されていなかった。それを、ビルや橋梁や鉄塔などの建造物の3Dデータを含めたデジタル情報としての地図にしようというわけです。いままでもグーグルアースなどのように便宜的な立体地図や限定された地域の3Dマップはありましたが、CityGMLという標準規格で全国的な地図を作ろうという考えのようです。これにはセマンティックな、つまり意味的な情報も入ってくる。

    実は、こうした動きでDXよりもよっぽど先行しているのが、トラック運転手になって走り回るシュミレーターです。『Euro Truck Simulator 2』というチェコの会社が作ったゲームなんですが、これの日本のデータが非公式ながら有志によって作られている。Project Japanといって、日本全国の幹線道路を走らせることができる。そのときに運転席から見える景色は本物の日本各地の風景なんですね。

    しかも、こうした3Dデータはいまや、スマホ1台で気軽に3D空間が表現できるようにもなってきています。《フォトグラメトリ》(写真測量)というのですが、スマートフォンで写真を撮っていくとそれをもとに自動的に3Dモデルを生成できちゃう。いままでだったら衛星やドローンやレーザー、あるいは大がかりな専用のスキャナーを使ってやっていたことです。《iPhonel2》などはそうしたニーズを意識した設計になっているわけです。

    このように現実の世界が3Dモデル化されてバーチャル空間で実現されるようになると、世界はどんなふうに変わっていくか? バーチャル空間ではそこに自分が入り込むことになりますからね。それは従来のVRコンテンツとはだいぶ違うものになりつつあります。いままでは、3D「鑑賞」であったり、バーチャルな「体験」だった。そうではなくて、自分がそこにいるだけでバーチャル空間の中のほかのものに影響を与えるオブジェクトの1つになる。

    いわばプログラム的リソースの一部になるんだという考え方が重要です。なんでもないように見えますが、これは、ユーザーインターフェイスと呼ばれてきたいままでのコンピューターを使うという概念を吹っ飛ばすものですよ。

    バーチャル空間が一気に作られている根底にそういう認識の変化があるんじゃないですかね?

    望月

    究極、映画の『マトリックス』みたいな世界になるんですかね?

    遠藤

    ちょっとそこは興味があるんです。コロナがきてみんなリモートワークになり、Web会議になった、会社の建物や会議室の代わりにZoomやGoogle Meetになったみたいなところがありますよね。次のステップとして、いまは全然予想できていないようなことができたら楽しいですよね。

    デジタルで死んだ

    望月

    『マトリックス』みたいな世界になったら「デジタルで死んだ」みたいになるんですかね?

    遠藤

    これを追求してくと現実の世界とデジタルの世界は、同じくらいの価値を帯びてきますからね。むしろ、バーチャルの中のほうが便利だからそっちのほうがいいみたいな。映画『マトリックス』では、バーチャルで死ぬと現実の世界でも死ぬという設定だったんですね。「デジタルで死んだ」は、このテーマを考える上で、すごくいいところをグサッと突かれた感じです。そこまでいって振り返って考えるといろいろ見えてきそうです。

    望月

    遠藤さんの話に近しいのは、『マトリックス』の他には『レディ・プレイヤー1』ですね。

    遠藤

    レディ・プレイヤー1は、ゲームとして描かれているけれどもいまの話はそうじゃないんですよね。現実に対応するバーチャルがもう1つあるという考えですから、そこに大きなギャップがあることにみんなもう気がついていて、現実のコピーをやりはじめているんですよ。だからマトリックスってすごい現実感のある作品だったと思うんですけど。

    マトリックスの中の戦うシーンで、バーチャル空間の中でスピードの差を問うシーンがありました。一方で、マトリックスの中でやられると肉体的なダメージはないはずなのに、生きる価値がなくなるからなのか現実でも死んでしまう。デジタルでの存在が究極まで高まった状態ということでしょうか。

    かつてはこういうことは、メディア学者とか作家とか、いろんな立場の人たちが未来を予測していたけど、いまはテクノロジーのほうが先行しているようなところもありますね。

    望月

    だから、たぶん追いつけなくなったら負けだなと思っていて。

    遠藤

    人間の想像力がテクノロジーやそれによる製品を生み出すのではなくて、テクノロジーが先行して人々のイマジネーションを刺激している時代ですよね。

    人間とは何かを考えると

    望月

    脳死と心臓死の先の概念としてのデジタル死ですかね。

    遠藤

    だから人間は生きているのにデジタルの世界には存在しない。ネットの世界では「インターネット死刑」という言葉がありました。ネットの世界でよくないことをした人をネットから締め出すのを死刑とたとえたんです。実際に、2009年にフランスでは「HADOPI法」(スリーストライク法)が制定されて違法ダウンロードを繰り返すとネット接続を遮断されることになった。2013年に実質的に廃止されますが。ネットで得られるものが現実以上になったら本当に死刑を意味するかもしれませんね。

    もともと人間とは何かみたいなことを考えると、その人の肉体もさることながらその人の頭の中にあるソフトウェアともいえますね。その人が書いたものや誰かに言ったこと、物事に対してどう返してくるかみたいなものが人間というソフトウェアですよね。そのようにして故人を復活させるようなことが小説になっていたり試みされてもいる。肉体は死んでも魂は生きているみたいなことが、メディアによって半ば実現されているようなところもありますね。

    そんなのスマートスピーカーみたいなBotの範囲だろうと言われそうです。《AI》(人工知能)がどんなに高度に進化しても、きちんとものごとを《理解》するわけではない。いわんや《心》があるふりはするけど、それはちょっと違うものだという意見がある。ところが、本当にそうなのかどうかはなんとも言えません。

    2013年頃以降の《AI》(人工知能)の大きな盛り上がりの最大の立役者であるトロント大学のジェフリー・ヒントン教授は、深層学習によって知能は実現できるという立場らしいです。最近も、『MIT Technology Review』で、AIが、たとえば引き出しをあけてモノを取り出したことを言葉で説明したときに、それが何を意味しているのか理解していないとは言い切れないと述べているんですよ。そもそも脳の活動を従来の認知科学の「記号」などとは違った「ベクトル」という新しいアプローチでとらえている。

    現実世界のものをすべてバーチャルに作るとなったとき、《人間》というもののデジタルツインはどうなるんだみたいなことですね。『攻殻機動隊』みたいなマインドアップローティング的な話につながっていくわけですが。さきほどの言葉で説明したAIで、脳の活動を決めるパラメーターの数が人間より3桁ほど少ないという段階だそうです。

    最近、寄藤文平さんの『死にカタログ』という本を読んだのですが、たまたま勧められてなのですが。「大人たばこ養成講座」のあの白と黄色のイラストで、ある意味淡々と《死》について思考をめぐらせている。いちばん面白かったのは古今東西の死に対する考え方でした。

    天国や地獄に行く、鳥になる、チョウになる、ハエになる、仏教の「四大分離」という考え方も面白かった。「地」、「水」、「火」、「風」の4つ元素に戻るみたいなやつでとても科学的。パプアニューギニアのある島では「近所の島に行く」と考えていたと。この寄藤さんの本ふうに言うと《デジタル死》は、プログラムの停止です。コンピューターサイエンスの世界には《停止問題》というのがあって、そのプログラムが有限時間で停止するかを判定するアルゴリズムは存在しないんですけどね。そこは、なんとなく我々の生命っぽくもあり。

    記憶の超解像的再生

    さっきの“人間というのはソフトウェアなのでメディアに保存されうる”ということについていうと、僕は、そのバックナンバーはある意味タイムマシンみたいなところがあります。PC雑誌なんだけど、僕は「アジャンタのマトンカレー食べた」みたいなことを書いてたりするので、実際、「この頃、オレこうだったじゃん」みたいな感じにページめくるだけでなったりするんですよ。

    毎日綴られた日記に比べるとえらいレゾリューションの粗いものなんですが、それが外に向けられて書かれている。同時に、広告も含めて一時期は600ページもあった雑誌なので、ほかの記事とがリンクするようにセットになっている。本業であるパソコンの技術について僕がどう考えていたかとか、その頃に公開されていた映画のことなども分かることもある。だいぶ恥ずかしい内容の部分もあるわけなのですが。

    アスキーに入社する前は『東京おとなクラブ』というサブカルこてこてな同人誌みたいなものを作っていて、それはもっと自分がまるだしになっているわけですが。自分で書き手を集めてきて、ほぼすべて自分で決めていましたからね。そういえば、しばらく前ですが中森明夫が電話してきて「ボクの小説のなかにエンドウさんが出てきます。フィクションなのでこまかな違いはおゆるしください」みたいなことを言ったんです。『青い秋』という小説の中で、僕が、朝まで好きなマンガやプログラミング言語について語っていたりしている。

    断片的ではあるけれど、いろいろな形で自分がアウトプットされて残っている。こうした断片的な情報をもとに、いまならそれこそAI技術を使ってちょうど昔のフィルムを自動的にカラーにしたり、自分がもし女性だったらみたいな画像を生成できたりしますよね。あんな感じで、過去の情報をもとに自分みたいな見た目であるだけでなく自分みたいな内容の発言をするバーチャル空間の自分が作れてしまうかもしれません。それは、自分のデジタルツインですね。さきほどのヒントン氏の話に出てきたAIのようすなんかを見ていると、案外と時間の問題かもしれません。

    メディアのまえとあと / 玉置泰紀

    取材のあと

    音声配信アプリ Stand.fmを使って、取材後のインタビューをしています。

    Profile

    遠藤諭

    1956年生まれ。プログラマーを経験後、1985年アスキー入社。1991年から2002年までパソコン雑誌『月刊アスキー』編集長。ミリオンセラーとなった単行本『マーフィーの法則』や『「超」整理手帳』などの企画も手がける。現在は、ネットデジタル時代の消費行動について調査・コンサルティングを行っている。アスキー入社前の83年に『東京おとなクラブ』を創刊。80年代のサブカル事情に詳しい。カレー好きで3000人以上の会員のいる「東京カレーニュース」を主宰。AIでラジコンカーを走らせている。
    Twitter:@hortense667
    遠藤諭のプログラミング+日記:https://ascii.jp/serialarticles/1225476/